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日本各地に名所があり、開花を待ちわびて、いつ頃咲くのか話題にも上り、短歌や俳句、歌謡曲などの作品にも多く取り上げられ、日本人に愛されつづけ、親しまれているサクラは、植物の中でも特別な存在であるのは間違いありません。
花が開いて、散るという毎年繰り返される生命の循環に、見る側がことさらに思いを寄せ、さまざまに投影して、人生を感じ、生き方を見つめ、いろいろな関わりを見出すことで、日々の暮らしに潤いをもたらせ、いま、このひとときの大切さをかみしめることにもつながり、明日へ踏み出す一歩にもつながって行くような気がします。
「花に嵐の喩えもあるぞ、さよならだけが人生だ」というのは、漢詩の「花發多風雨人生足別離」を井伏鱒二が翻訳したとされ、余りにも有名な一節で、花が開けば皮肉にも風や雨が強くなって、散らしてしまうものだ、ということを、人が生きて行く上でも愛する人や好ましい人との別れが必ずくるものだ、ということに対比させて、先の見えない人の生きる道だからこそ、その前にある「勧君金屈巵満酌不須辞」が効いてくるのであって、「この杯を受けてくれ、どうぞなみなみ注がしておくれ」と井伏鱒二が訳したわけですが、井伏鱒二は超絶技巧で翻訳したのではなく、漢詩を読み込んで、完全に消化し、血となり肉となった自分の言葉を吐き出し、独自の世界を構築した本歌取りであって、およそ1200年もの前の中国の詩人の感覚が、現代でも充分に共感できるのにも驚かされ、五言絶句にまとめた卓越した才能の巨大さと、そこから日本人ならではの情の細やかさをつけ加えながら、サクラの花が散るように潔く言い切った才能もまた偉大であり、時代も国境も超えて、万感胸に迫ります。
「さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう」とからんできたのは寺山修司ですが、ここにも暗喩としてのサクラが散りばめられていて、一度散ったとしても、また季節はめぐってくるのだから、人生は捨てたものじゃない、というメッセージを、花見にきて、堂々めぐりの話を延々と聞かせる酔っ払いのようなくどさを漂わせつつ投げかけて、くさいながらも秀逸です。
花を見て、何を思うかは自由ですが、できることならこれ以上温暖化が進まず、新学期や新年度の始まる頃に咲きつづけてもらいたいものです。