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小倉城は、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で建てられた復興天守、城郭に造詣の深い建築史家・藤岡通夫(1908~1988)の設計考証により、もともとの絵図とは余り似ていない姿で、現在は大和ハウスグループのフジタによって施工されました。
関ヶ原の戦いの功績により、細川忠興が初め中津城に入るものの、居城として毛利氏の小倉城を改築、大天守や小天守、櫓などを7年かけて築きましたが、寛永9年(1632)細川家が肥後に転封になると、播磨明石から小笠原忠真が15万石で入封、天保8年(1837)には塩切場より出火し、天守をはじめ本丸を焼失、以後、天守は再建されませんでした。
幕末、朝廷より幕府に長州征討の命が下り、元治元年(1864)小倉城に副総督府が置かれ、慶応2年(1866)の第二次長州征伐では、小倉口での戦いにおいて、総督・小笠原長行が指揮する九州諸藩が、高杉晋作・山縣有朋らが率いる長州藩の前に敗北し、小倉城に火を放って退却、江戸幕府の滅亡がほぼ確実視される結末となり、慶応3年に朝敵を赦免された長州藩は、勇躍、新政府樹立へと突き進むことになりました。
小倉城の内部は博物館となっていて、小倉城下のジオラマや甲冑や大名籠があったり、島原の乱の前の作戦会議をからくり人形で再現していたり、余り脈絡のない展示物が散発的に置かれてあり、その一画にあった巌流島の戦いの展示には興味を引かれ、後年の創作では、宮本武蔵(1582~1645)はわざと遅れて行き、遅刻に怒った佐々木小次郎(?~1612)が「遅いぞ武蔵」と叫んで刀の鞘を投げ捨てたところ、「小次郎敗れたり」と叫ぶやいなや、電光石火の勢いで木刀で一撃を加え、勝敗が決したことにされているようですが、実際には武蔵は定刻通り現れ、相会し、一説に70を超えていたといわれる小次郎に対して、30歳と脂の乗り切った武蔵が目にも止まらぬ早業で斬りかかったようで、木刀でかち殴ったのは史実のようです。
小倉細川藩初代藩主細川忠興(1563~1645)は、茶道や和歌、能楽にも通じた教養人で、本能寺の変のあと明智光秀の申し出を断った聡明さがのちの出世にもつながったようで、関ヶ原で東軍につき、妻のガラシャは西軍に襲われ、人質となることを拒んで自害する悲運にも遭いましたが、丹後12万石から豊前中津33万9千石に国替のうえ加増、豊前杵築もそのまま細川領とされたためさらに6万石を加え、豊前の年貢を筑前に移った黒田長政に持ち去られる災難にもめげず、慶長7年(1602)より小倉城の大規模改築に着手、現在では、「小倉城は細川忠興が築城」と記され、歴史に名を刻み込みました。