


常栄寺は、14代当主大内政弘が母の菩提を弔うため、別邸を寺にして「妙喜寺」を創建、もともとの常栄寺は毛利元就が長男隆元の菩提を弔うため、永禄3年(1563)に安芸吉田の郡山城内に建てられていて、関ヶ原の戦いのあと、周防の国清寺と合寺し、毛利隆元の妻の菩提寺「妙寿寺」は妙喜寺と合寺、文久3年(1863)毛利敬親が萩から山口へ移転した時に、伽藍のみ洞春寺に譲り、常栄寺は現在の地に移り、妙寿寺と合寺、山号は国清寺の「香山」を踏襲、「常栄寺」は毛利隆元の法名により、現在にいたり、つまりは、大内政弘が別邸として建てたところに常栄寺があり、大内政弘が雪舟に命じて造らせたと伝わる庭が代々引き継がれてきた、ということのようです。
本堂から庭に入って、まず感じるのは、池泉の手前の芝生の上に転々と置かれた石が余りにもまばらで、三方を山で囲われた平地の部分には植栽がなく、この余白の多さが禅の庭らしいところであって、ないといえばまったく何もない、あるといえば無限にある、山なみであるといわれれば山なみであるし、大海原といわれれば大海原であるし、ただひたすらに直視すれば、おのずと見えてくる世界であり、自然には一切のうそやいつわり、まやかしやごまかしがなく、見つめるのは雑念や煩悩にとらわれている自分自身であって、問いかけられていることに真摯に向き合い、そこにある世界観と対話するだけのような気がしてきました。
石の置かれた芝生の向こうには大きな池が広がり、向かって右の奥深くには滝石組があって、その前に鯉魚石があり、登竜門にちなみ、深山幽谷にいたるという地割、これは人生における修行そのものであり、学問においても、芸事においても、仕事においても、すべては幾多の山路を乗り越え、大海原を渡り、険しい道のりを経て、ひとかどとなれるのであって、時の流れの風雪に耐えた作品を残し、子供の頃から修行にいそしんだ雪舟の偉大な人生を、この庭に託したのかもしれません。
雪舟を大きな頂として見上げながら、翻って省みるに、人間である以上、高邁な精神ばかりでは生きて行けず、自分をごまかし、うそをつき、詭弁を弄し、いいわけや不平不満で自己満足し、他人を貶めて、ことさらに自分を大きく見せようとわるあがきばかりしてしまうこともありますが、時には足元を見つめ直し、ありのまま、こころにうそをつかなくてもいい生き方をしようと心がけるしか、余りにも小さな存在で、素養もなく、学識もなく、何もできなかった者にとっては精一杯の修行のような気がします。