


室町後期の安芸国は、管領細川氏や尼子氏の東の室町幕府勢力と、西の守護大名大内氏との激しいつばぜり合いの場となり、毛利氏などの国人領主は翻弄され、右往左往していたところ、大永3年(1523)27歳で家督を継いだ毛利元就は吉田郡山城に入り、じわじわ勢力を拡大して国人領主連合の盟主となり、次男は吉川家へ、三男は小早川家へ養子に出し、毛利両川体勢を確立、陶晴賢による大内義隆殺害やその後の混乱に乗じて、大内氏を滅ぼし、所領を大きく拡大して有力な戦国大名となり、出雲国の尼子氏も破ると、当主の長男隆元は喪ったものの、中国地方8カ国を一代にして手中に収める西国最大の戦国大名となり、元亀2年(1571)吉田郡山城にて老衰により死去、享年75でした。
山口市にある臨済宗建仁寺派洞春寺は毛利元就の菩提寺ですが、この地には応永11年(1404)に大内泰見が建立した国清寺があり、毛利家が防長に移ってきてから毛利隆元の菩提寺となっていました。
もともとは、元亀3年(1572)に毛利元就の孫輝元によって、安芸国吉田城内に開基されたのが始まりで、関が原の役のあと、慶長8年(1603)には毛利家に従って山口市に、萩に城が造られると萩市へと移り、維新に際して、山口に屋形が建てられると、明治2年(1869)には山口市へと戻り、現在に至りました。
藩主とともに転生し、栄枯盛衰を見守りつづけてきた菩提寺には、国清寺創建当時のものと思われる山門があり、厨子裏の板銘に永享2年(1430)建立とある観音堂があり、14世紀の中頃からおよそ200年にわたって勢力を誇った大内氏の文化と、それを継承した毛利氏の文化が色濃く残り、西の京としての栄華の一端がうかがえました。