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種子島への鉄砲伝来は天文12年(1543)8月25日のこと、一隻の明船に便乗していたポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが、領主種子島時堯に、火縄銃2丁を2千両という高値で売りつけてから、その6年後の天文18年(1549)8月15日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル一行が薩摩に上陸、平戸、博多、周防を経て、堺から京に上ったのは天文20年(1551)1月、日本国内での布教の許可を得るため日本国王に謁見するという望みを果たせず、11日の滞在で京を去り、周防を経て、3月に平戸に戻り、置いてあった献上品を携え、改めて周防山口へ入り、守護大内義隆と再び謁見する運びとなりました。
前回に謁見した際、みすぼらしい旅姿で、貢物も持たず、大内義隆の行いについて批判がましい正論を吐くなどした失敗を踏まえ、見た目を豪勢に着飾り、望遠鏡や眼鏡、書籍、絵画など珍しい品々をふんだんに献上したところ、布教の許可とともに、廃寺となっていた大道寺を拠点として提供してくれ、日本で最初の常設の教会が誕生したのでした。
フランシスコ・ザビエルは、修道士ジョアン・フェルナンデスとともに1日2回、山口の大殿小路という通りで、集まってくる大勢の人々に向かって布教活動を行い、説法を終えて、住居でもある教会に戻ってくると、たくさんの人々がついてきていて、面白半分に、あるいは真摯に真理を知るために、質問攻めにしたり、門答を吹っかけてきたり、労苦は多いものの、理解が得られず、成果の乏しい日々を過ごしていたのですが、ある時、通りすがりのひとりの男がフェルナンデスを罵倒し始め、そばに寄ってきて痰を吐きかけ、侮蔑の言葉を浴びせ、高笑いしながら立ち去った一件があり、その無礼に対して態度を変えることなく、顔を手ぬぐいでふき取ると、何事もなかったように始めた時と同じような平静な口調で説教をつづけたフェルナンデスの毅然とした振る舞いに、神への信仰の深さを理解した人々が多く、山口での約2ヶ月の滞在において獲得した信者は、およそ500人に達し、その中にはのちにイエズス会の宣教師となる琵琶法師のロレンソ了斎もいたそうです。
山口での布教はトーレス神父ら他の宣教師に任せ、豊後に赴き、大友宗麟の庇護の下布教を行い、日本での滞在が2年を過ぎた頃、インドに戻ることを決意、鹿児島の日本人青年4人とともにゴアへ向けて出帆しましたが、日本史の教科書に出てくる「フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝える」という一行は、「以後よくハゲめよキリスト教」という年代を覚えやすくする一文と、フランシスコ・ザビエルの派手な襟のついた西洋風の服装と、虚空を見上げた頭頂部の薄くなった特徴的な髪型とともに記憶に刻まれていても、その背後関係まで深く知ろうともせず、最近の教科書には「フランシスコ・シャビエル」と記載されているそうで、山口ではサビエルと呼ばれ、ハビエルと読む人もいて、ザビエルか、シャビエルか、サビエルか、ハビエルか、悩むことのほどではないにしても、外国人の名前などは、ギョオテのようなもので、本人が草葉の陰で一番仰天しているのではないかと思えてきます。
フランシスコ・ザビエルの来日は、スペインやポルトガルの植民地政策の一環であったとは考えられますが、かなり精力的に宣教していたのは間違いなく、インド・ゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた書簡が残されていて、「この国の人々はこれまでに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の中では見つけられないでしょう」「他の何ものよりも名誉を重んじます」「盗みについてこれほど節操のある人々をこれまでみたことがありません」などと鋭い洞察によって日本人の印象を述べ、報告していて、日本から去る時には、「肉体的には元気ですが、精も根も尽き果ててしまいました」と書き、その原因となったのは、「日本人は好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛で限りがなく、地球が丸いことも、太陽の軌道についても知りませんでしたが、その他、流星、稲妻、雨や雪などへの質問に答え、よく説明したところ、たいへん満足して喜びました」といった日本人の性分にあったようです。