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「洪水でも流されない橋を架ける」――周防岩国領三代当主吉川広嘉は、横山山頂にある要害としての城と、その麓に広がる居館や役所、上級武士の居住区と、天然の濠としての幅200mの錦川をはさんだ対岸の中級以下の武士の居住区とに架けられた橋が、洪水のたびに流失、崩壊してしまい、渡し舟では出水や大風のたびに運休してしまうため、藩政の大きな阻害要因となっていて、洪水くらいでは流されない頑強・堅牢な橋を造ることが悲願であり、家臣に命じて橋の模型を作らせたり、技術者を長崎に派遣したり、藩内外の橋の研究にいそしんでいました。
川の形状から急流になりやすく、川床に砂利が堆積しているために橋脚が激しい流れに耐え切れず、砂利の上に堅固な橋脚を築く技術もなかったため、橋脚のないアーチ橋を架けることにしたものの、川幅200mをひとつのアーチでまたぐのは当時の技術では不可能で、暗礁に乗り上げていたのでした。
吉川広嘉は生来病弱であったため、体調が優れず、40歳を過ぎて持病の療養に専念している折、侍医佐伯玄東を長崎に派遣し、医学に通じた明からの帰化僧独立を呼び寄せ、治療を施してもらうとともに、独立の故郷杭州や西湖に話が及び、独立の所有している「西湖遊覧誌」を飛脚を遣わして取り寄せたところ、5つの小島に石造のアーチ橋が架かっている絵を見て、思わず机を叩き、大いに喜び、錦川にいくつかの小島を築き、その上にアーチ橋を架ければいいのではないか、とひらめき、すぐに実現に向けて進み出しました。
寛文13年(1673)6月28日に橋脚の鍬初めが行われ、橋脚の築造とともに橋梁の建築も進められ、延宝元年(1673)9月30日、10月3日に渡り初めが行われ、ついに悲願であった洪水にも流されない橋が完成したはずでしたが、翌年の5月28日、洪水によって橋脚の周囲が洗掘され、3つの橋脚が崩壊、そのためアーチ橋も崩落、またしても流失してしまう結果となりました。
すぐさま、その年の6月1日には再建に着手、橋脚周辺はとくに強固にして、そのほかにもさまざまな改良を加え、10月25日に再建が完了、11月3日から供用が開始され、そののちもさらなる改良や補強がなされ、流されない橋としての役目を果たしていましたが、昭和25年(1950)9月24日、キジア台風により、276年間不落を誇った錦帯橋も流失、原因としては、戦時中に松根油を採取するなどして山を荒していたこと、進駐軍の岩国基地滑走路拡張のため砂利を大量に採掘していたこと、戦後の管理が満足にできなかったことなどが挙げられています。