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永禄10年(1567)頃に整備が始められた三原城は、兄の吉川元春とともに、水軍を率いて甥の毛利輝元を助け、毛利家の勢力拡大に貢献した小早川隆景によって築かれ、沼田川河口に浮かぶ小島を石垣でつなぎ、城郭と港の機能を兼ね備えて、外部からの侵入を防ぐ防御を固め、周辺にあった多くの寺院を三原城の近くに引っ張ってきて、それぞれの寺に外砦の役割を持たせながら、宗派を異ならせることで一揆などの反乱を未然に防ぐ配慮もなされ、さらに、山側にはT字型やかぎ型の小路を作り、和久原川を境に、西側の城内と東側の町家との間に段差を設けて、一段高くした城内の武家町には水害が及ばないようにするといった工夫もなされ、城下の防衛に総力を注ぎ、周到に計画された要塞都市でもありました。
石垣のあぶり積みとは、控えより大きい寸法の方を面にして積む方法で、表面の面積が奥行きの面積よりも大きい石の積み方をすると、あご出ししたり、せり出してきたり、こけ込んでしまったり、当然ながら不安定ではあるのですが、小早川隆景が築城していた頃には、一般的な手法であったのかもしれません。
小早川隆景が慶長2年(1597)に病没すると、関が原の戦いののち、福島正則が安芸・備後に入封、正則は広島城に、三原には養子の正之が入ったものの、元和5年(1619)に改易となり、紀伊新宮より浅野忠長が入り、広島藩の支藩として幕末を迎え、明治維新後、明治9年(1876)に海軍省が三原城を買い上げ、海軍鎮守府の候補地となっていましたが、海軍鎮守府は明治16年(1883)に呉に設置されました。
石垣が駅の土台になっているというと、現代の感覚からすれば、文化財を保存せずに流用したとか、ないがしろにしたとか、ついつい考えがちですが、当時は一刻も早く欧米列強に追いつくべく近代化を一気呵成に進めているさなかであり、当然鉄道の敷設も急がれていて、迂回している場合ではなく、さらには、江戸時代というのは父や祖父の生きていた最近の時代の話であり、徳川幕府の時代の遺物は早急に打ち壊すべき存在であり、旧態依然としたままでは、新しい時代に立ち向かえなかったものと思われます。
鉄路の土台として活用された天主台は、江戸城の天守台とほぼ同じくらいの広さとはいえ、山城から平城への移行期ということもあり、小早川隆景によって三原城が造られた当時には天守を建てるという発想はなかったようで、初めて天守がそびえるようになるのは、天正4年(1576)に築城を開始し、天正7年に完成した安土城、織田信長によってなされたのでした。