


歴史に、もしもは禁物ですが、彦根城が残されていなかったら、当然、平成19年(2007)の「国宝・彦根城築城400年祭」は催されず、そうなるとイメージキャラクターの「ひこにゃん」も制作されなかったわけで、もしも「ひこにゃん」が誕生していなければ、ゆるキャラブームは訪れなかったかも知れず、くまもんの登場もなかったかも知れず、高槻市が役所を挙げて似たようなキャラクターを課ごとに36も作り上げて盛り上がることもなかったかも知れず、ふなっしーが人気を博して億万長者になることもなかったかも知れず、などと考えると、天守が存続したおかげで、波及効果が莫大であったことに気づかされ、新しい歴史が作られ、文化も創造されたことに驚かされます。
「ひこにゃん」は、彦根藩所領地の世田谷豪徳寺での伝説に基づいて作られていて、井伊直孝が大きな木の下で雨宿りをしていた際、手招きをしているシロネコを見つけて近寄ったところ、直後に雷が大木に落ち、炎上、このシロネコのおかげで命拾いをしたと感謝した直孝が豪徳寺を井伊家の菩提寺とした、という説と、シロネコが井伊直孝を手招きして門内に引き入れ、直後に激しい雷雨になり、避けられた上に、和尚の法話を聞くことができたことを大いに喜び、井伊家の菩提寺にした、という説があり、どちらにしても単なるネコ好きな殿様で、その甲斐あって彦根城も千客万来となったのだから、招き猫の効果は絶大、機会を作ってくれたシロネコをうまく活用した彦根市の企画力も卓越していたようです。
関が原の軍功により、佐和山18万石を与えられた徳川四天王で彦根藩初代藩主の井伊直政は、石田光成の居城を嫌って移転させようとしたものの、関が原での鉄砲傷がもとで慶長7年(1602)に無念の死を迎え、家督を継いだ二代藩主井伊直孝が幼少のため、家老木俣守勝が徳川家康と相談して金亀山に慶長9年から築城を始め、幕府が支援し、尾張や越前など15大名が手伝う天下普請により、慶長12年に天守が完成、井伊直孝も入城しました。
その後、元和元年(1615)の大坂夏の陣のあとに工事が再開し、表御殿の造営、三重の濠と櫓、町割や街道の整備が進められ、城下町を含む彦根城の形は、元和8年にはほぼ整い、江戸時代を通じて、城下町は繁栄、井伊家は5代6度の大老職を出すなど譜代大名筆頭としての家柄を保ち、加増を重ねて寛永10年(1633)には譜代大名中最高の35万石を得て、一度も転封することなく、明治維新を迎えました。