


昭和10年に建てられた木造校舎で、昭和61年まで使用されていたそうなので、昭和16年に尋常小学校から国民学校初等科へ、昭和22年に小学校へと改革された歴史を刻み込み、戦災にも遭わず、取り壊しにもならず、戦前の学校の雰囲気を感じられる建物が残されているのは大きな価値があると思えます。
向かって左には、少年の像があり、台座には「報徳」の文字があったので、二宮尊徳像だと思われますが、トレードマークの薪を背負っていないと、どこの誰やらわからず、子供の頃、小学校の校門のそばにあった像を見上げ、重荷を負い、艱難辛苦に耐えて、本を読みながら歩くから尊いのかと早とちりしていた身にとって、身軽になった上に、さっぱりした表情で、左手には籠を持ち、いくら右手に巻物を握りしめていようと、勉学に励んでいるようにはまったく見えてこないので、ものすごく落胆し、やはり、歩きながら本を読んでいると車にはね飛ばされる危険性も高いし、見た目がそっくりの「歩きスマホ」を奨励しているように見えなくもないし、場合によっては児童虐待と受け取られかねないし、薪に火をつけられても気づかないおそれもあるし、現代では不都合な勉強法ということで、背中の荷物が取り払われ、自由にのびのびと動ける姿になったのかもしれません。
向かって右には、「平和の光」と名づけられた女性教諭とふたりの女子児童の像があって、余り見かけたことがないので、不思議に思って近づくと、石碑には「贈 平和の光 朝鮮民主主義人民共和国帰国記念 1960年11月22日」とあり、昭和26年頃から旧米原小学校に民族学級が2クラスあって、約60名の児童の父兄の多くは、米原駅西口に広がっていた入江内湖の干拓工事に雇われていたそうで、昭和34年12月に帰還事業が始まると、多くの人たちが集団で帰国し、民族学級も昭和39年に閉鎖されたようです。
外国人観光客が驚嘆することのひとつに、駅の構内やホームなどで、まだ体の小さな小学生の団体が荷物を持って整然と並んでいるのを見たり、修学旅行で訪れた観光名所などで暴れたりわめいたりせず秩序立てて観覧しているのを見たりして、子供の頃から社会性が涵養され、物分りがよく、利口で、集団生活になじんでいるのを、他の国の子供に比較して優れていると感じているようですが、江戸時代から庶民も寺子屋で読み書きなどを習い、明治時代からは教育制度を充実させ、もともと勤勉で真摯な国民性にさらに磨きがかかり、今日の繁栄をもたらせたのは、人材育成に力を注ぎつづけてきた結果であり、とくに幼少時の教育は重要で、こうした木造校舎で、暑いの寒いのと不平不満をもらさず、一生懸命に勉強した先人たちのおかげで、便利で快適に過ごせるようになったのには感謝したいと思っています。