


19世紀前期から中期にかけての江戸時代末期に建てられた家屋が2棟、明治時代に建てられた家屋が6棟、もっとも新しい家屋が大正14年(1925)に建てられ、日本でも有数の豪雪地帯の厳しい自然環境に耐え抜く頑強な造りで、生活の場としてはもちろん、江戸時代には、養蚕や和紙、塩硝造りなどの生業の場としても使われ、わずかな土地を利用した稲作と焼畑農業で暮らしが営まれていたようです。
この地域に人が住み始めたのは石器時代といわれ、石器や土器が多数発掘されているそうで、縄文中期から後期の初めにかけての土器が多く出土し、奈良時代になると、白山の修験道として、大門山、見越山、奈良岳、大笠山、笈ケ岳に修験者の往来があったらしく、平安末期の木曾義仲と平維盛とが争った俱梨伽羅峠の戦いで敗れた平家の落人が逃れてきて、住み着いたと伝えられ、室町時代には、浄土真宗本願寺8世蓮如の教化を受けた赤尾の道宗が五箇山に道場を開き、この浄土真宗の信仰が、厳しい自然環境の中で生きる五箇山の人々の心の支えとなり、「結」に代表される助け合い社会の基本となったといわれています。
江戸時代、加賀前田藩の所領となると、養蚕、和紙、塩硝の生産地として封建社会に取り込まれ、急峻な山と谷は流刑地としての要件を満たし、加賀から多くの罪人、主に政治犯が送り込まれてきましたが、都の文化の伝来にもつながり、古来より伝承されてきた田楽や田踊りと融合して、日本最古の民謡とされるこきりこ節や落人伝説に基づく麦や節、荷物を牛に載せて運ぶ時に唄う五箇山追分節などに収斂し、民謡と舞踊の宝庫となったのかもしれません。
豊かな自然に囲まれ、のどかで落ち着いた空気がただよい、穏やかでゆるやかに流れる時間の中で、五箇山の気候や風土を知り尽くした人々の知恵が息づき、受け継いできた伝統を助け合いによって守り抜き、いまなお歴史が生き、歴史に生き、歴史を生きる五箇山の魅力は、時が止まったかのような一瞬の景観の美しさに、過去と未来がいまと同時に存在する永遠のきらめきを放つようでした。