


遊女というと、親の借金の肩代わりをするために身売りをしたというイメージが持たれていますが、実際には吉原界隈に15軒の女衒屋があり、その配下の山女衒によってさらわれてきた幼女も多かったようで、7、8歳の禿から、13、14歳の新造、そののちに遊女となり、28歳の年季明けまで奉公していたようです。
安政2年(1855)に起きた大地震で亡くなった1000人余りの遊女が投げ込み同様に葬られたのが三ノ輪にある浄閑寺で、その他にも、吉原の法度を破った遊女が簀巻きにされて200文とともに投げ込まれたり、引き取り手のない吉原の使用人などが葬られたりして、約340年に渡り、2万5000もの遊女たちを祀っているそうで、明暦元年(1655)の開基以来、明暦の大火、安政の大地震、関東大震災、東京大空襲にも焼け残った強運のある寺院のようです。
新吉原は昼夜営業、夜見世は六ツ(18時)の点燈後に各遊女屋の若者が大黒柱を掌で3回叩き、それを合図に新造や遊女が三味線を弾き始める見世清搔(みせすががき)に始まり、決まりでは四ツ(22時)に拍子木を打って店じまいのはずが、同心・岡引への存分な袖の下と饗応で大門は閉めてももぐり戸は開いていて、九ツ(0時)に拍子木を打って閉店、また明くる日も繰り返され、おはぐろどぶの中からは酉の市以外は外に出ることもなく、遊女にとっては、世界のすべてが遊郭の内側だけであったといえるのかもしれません。
唯一の出入り口、大門から出るためには、生活費なども加算された借金を清算した上で年季が明けるか、ある程度裕福な客に見初められて身受けされるか、病気などで亡くなって浄閑寺へ葬られるか、3つの方法に尽き、毎夜浮かんでくるのは父母の面影か、兄弟姉妹との思い出か、思いを交わす客の横顔か、あるいは外界を自由に歩き回る自分の姿か、夢を見たとしても叶うはずもなし、そういうさだめとあきらめて、日々の暮らしを精一杯やり過ごすほかなかったでしょうが、年季が明けても遣手や切見世女郎として残る人が多かったという方が、やるせない気がしてきます。