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高野山は、弘仁7年(816)に弘法大師が嵯峨天皇から高野山を賜り、真言密教の道場を開いた開創の地であり、承和2年(835)に入定の地でもあり、奥之院、一の橋から御廟までの参道には、樹齢数百年の杉木立と、20万基を超える墓碑が並ぶ大師信仰の中心聖地で、深遠な景観は、高い精神性と深い神秘性を感じさせてくれました。
弘法大師の膝元で供養されたいと願ったのには、高野山が現世の極楽浄土とする信仰も厚くあったでしょうが、徳川家康が聖から情報を収集し、助力を得た見返りに、大名並みの石高に加え、全国への配札権や納骨や供養を受ける権利も与えられたため、徳川家と結びつきが強まり、江戸時代に約半数の大名が供養塔を建てたことに大きく影響したと考えられます。
明治時代までは、墓石などは大坂などで作り、九度山まで船で運び、その後は人力で2日がかりで担ぎ上げたという記録も残っているそうで、聖地で供養するために、多くの費用と労力がかけられたようです。
現代の墓めぐりは、電車とケーブルカーとバスを乗り継いで、花見気分で訪れることが可能ですが、やはり、墓所を目の当たりにすると、おごそかな気持ちにもなってきます。
人は必ず死ぬ、犬や猫も必ず死ぬ、しかし、犬や猫と違って、人はそのことを悟っているからこそ、生あるものをいつくしみ、生ある時を大切にして、どう生きるかを考える、死はすべての終わりではなく、どう生きてきたかの総決算、集大成であり、墓銘に刻み込む文言は、いま、この時をどう生きているかで定められるのではないかと思えてきました。