イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

播磨国明石は、もともと池田輝政の姫路藩領で、池田家が因幡鳥取に移り、幕府が新たに藩を立て、元和3年(1617)信濃松本の小笠原忠真が国替えとなって、明石川河口にあった船上城に入り、翌元和4年、二代将軍秀忠が西国諸藩の備えとして、銀一千貫目を与え、3名の普請奉行を遣わし、姫路城主本多忠政の指導を受けながら築城するように命じ、翌元和5年正月より、石垣の普請が始められ、町人普請、穴太衆により積まれて行きました。
本丸、二ノ丸等の城郭中心の石垣、三ノ丸の石垣、土塁、周辺の濠の普請が元和5年8月に終わり、幕府より派遣されていた普請奉行は江戸へ帰参、9月より藩主による櫓、御殿、城門、塀などの作事が始まり、一国一城令により廃城となった伏見城や三木城などの資材を用いて建てられ、建築は翌元和6年に完了、本丸に御殿を築き、四隅に三重の櫓が配され、天守台の石垣は築かれましたが、天守は建てられずに終わりました。
幕府に気兼ねしたとか、姫路藩に遠慮したとか、推測はなされていますが、関が原の戦いのあとで、天下泰平に向かいつつある時代の中、交通の要衝の西国の抑えとしては、これで充分と判断したのかもしれません。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、父と兄が戦死したことで家督を継いだ小笠原忠真の母は家康の娘、妻は姫路藩主本多忠政の娘で、大坂夏の陣の功績で明石十万石を拝領、城下町を建設する際、町割りを立案したのが客分として迎えられていた宮本武蔵と伝えられ、港を整備し、明石の基盤を造り上げ、寛永9年(1632)に15万石に加増されて豊前小倉に移りました。
小笠原忠真のあと、松平戸田家、大久保家、松平藤井家と譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、徳川四天王本多忠勝の曾孫本多政利が過酷な領民支配で陸奥岩瀬に転封されると、天和2年(1682)結城秀康を祖とする徳川家門の越前松平家松平直明が送り込まれ、6万石とはいえ、入部時に財政は困窮しながらも、ようやく安定、10代つづいて廃藩置県を迎えました。
現在は、陸上競技場や野球場、自転車競技場などとともに、穴太積みの石垣や二基の櫓は現存し、兵庫県立明石公園として無料公開されています。