


当時、色鍋島といえば最高級の献上品で、肥前佐賀藩は陶芸の技術の漏洩を厳しく取り締まり、とくに藩窯は人里はなれた山間に置かれ、情報が漏れることすら戒めていたにもかかわらず、大聖寺藩からの要請を受け入れたのには、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の長女市姫が出羽米沢藩二代藩主上杉定勝に嫁ぎ、その長女の徳姫が前田利治に輿入れしてきたことが機縁となっていて、つまり鍋島勝茂の孫娘の婿に対して便宜を図った、孫娘の願いを聞き入れてやった、ということのようです。
後藤才次郎が修得してきた技術によって、緑・青・紺青・紫の四彩を用いて余白なく文様の描かれた「青手」と、赤・緑・紫・紺青・黄の五彩を用いて、山水、花鳥風月、人物などを描いた「五彩手」などが、明暦から元禄にかけ作られていましたが、およそ50年で、突然、理由は不明ながら生産に幕が下ろされてしまいました。
九谷焼の廃窯からおよそ1世紀後の文化4年(1807)に、加賀藩が京都から青木木米を招いて、金沢の春日山に窯を開いたのを契機に、加賀一帯に窯が開かれるようになり、九谷焼は再興しました。
大聖寺の九谷焼美術館では、「青手の間」、「色絵・五彩手の間」、宮本屋窯の主工飯田屋八郎右衛門によって確立された赤絵細描久谷と、京都の永楽和全によって伝えられた金襴手、それらを融合させて生み出された赤絵金襴手の名品が並ぶ「赤絵・金襴の間」の三部構成になっていて、作品を間近に見ることで、九谷焼の魅力の一端に触れたような気がしました。