真田佐衛門佐幸村(1567~1615)、諱は信繁、通称は佐衛門佐、甲斐武田氏の家臣真田昌幸の次男、20歳の頃豊臣秀吉の家臣になったとされ、のち、父昌幸、兄信之とともに徳川家康の家臣となりましたが、関が原の戦いでは父とともに西軍に属し、信濃国上田城で徳川秀忠の大軍を退け、戦いのあと、高野山の麓、九度山に流され、14年を浪人として過ごし、慶長19年(1614)に豊臣と徳川の交渉決裂により、豊臣秀頼に招かれ、大坂城に入城、大坂冬の陣では出城を築き、徳川勢を撃退、翌年の夏の陣では、5月6日の道明寺の戦いでは伊達政宗の大軍を破るなど活躍、翌7日の最終決戦では茶臼山に陣取り、幾度も徳川本陣を攻め、徳川家康を脅かしたものの、最終的には松平忠直の軍に討ち取られてしまい、その勇猛果敢な戦いぶりは後世に伝えられ、講談などで幸村として呼ばれていたため「真田幸村」として広まった名も、同時代の記録や手紙では「幸村」の名は確認できず、「信繁」では劇的と思われなかったのか、語感がよくなかったのか、理由はともかくとして、「真田幸村」の武名は高まる一方だったようです。
その名高い真田幸村を討ち取ったのは、徳川秀康の長男松平忠直率いる越前軍の鉄砲足軽30人の物頭として従軍した西尾仁左衛門宗次(?~1635)で、はじめは甲斐武田家臣遠江国高天神城守将の横田甚衛門に属し、文禄2年(1593)に結城において結城秀康に知行200石で召し抱えられ、慶長5年(1600)の結城秀康越前国拝領にともない北の庄入りした時には、知行700石に加増されていたようです。
西尾仁左衛門はいかにして真田幸村を討ち取ったのか、についてはいくつもの説があり、‥渓寸嫁(1782)細川家記(小野景湛)では「鉄砲頭が幸村の首を取ったのは大手柄だ。しかし、傷を負い、疲れて倒れていた幸村の首を取ったのだからさほど手柄でない」、江戸時代初期「大坂物語」では「幸村が馬上で名乗りを上げていたところ、鉄砲で胸を撃たれ、落ちたところへ忠直の家来たちが折り重なり、首を取った」、1篳?固(1680)武辺噺聞書(国枝清軒)では「西尾が持ち運びに不便なため身元不明の首の鼻を削ごうとしていたところへ、幸村の叔父が通りかかり、鹿角の兜と前歯が欠けているのを根拠に幸村と認めた」、す掌融?總鞍勝峽陳晃聞書」では「家康に悪戦苦闘して討ち取ったと大仰に報告した西尾に対し、家康は、朝から戦いつづけていた幸村にそんな力が残っているはずはないと疑った」、サ?檻隠嫁(1727)落穂集(大道寺友山)では「家康が西尾に訊ねたがひれ伏したまま答えず、よい首をとったな、と褒めたものの、西尾退出後、あれは勝負して取った首ではないな、と言った」、昭和49年(1974)城塞(司馬遼太郎)では「西尾は名乗ったが相手は疲労で返事もできず、やすやすと槍で倒し、のちに幸村であると知り、奮戦した挙句討ち取ったと報告するも、家康は信じなかった」、Ь赦贈毅掲(1982)真田太平記(池波正太郎)では「幸村が近づいてきた西尾に手柄にせよと息絶え、首を取った西尾が鑓を合わせて討ち取ったと家康に報告したところ、嘘を見抜かれ、叱責された」ということになっていたようです。
全体的な印象としては、「疲労困憊していた真田幸村を倒し、首を取って家康に報告した」ということのようですが、福井市立郷土歴史博物館の調査により、松平文庫195「忠昌様大坂二而御戦功有増」に幸村の最期を伝える新説があり、「西尾仁左衛門が馬に乗り、敵陣の中に突き進むと小高い丘の上に敵がいて、互いに名乗りあって馬から下り、鑓を合わせるうち突き倒し、首を討ち取った。夕方、縁者と弟が陣中見舞いにきて、真田佐衛門佐の首だ、と言い出し、本多丹下成重と本多伊豆守富正に報告すると、松平少将忠直の耳にも達し、忠直もすぐさま家康に報告、その後、徳川家康、秀忠にお目見え、褒美金と時服を賜った。幸村の討ち死にした場所は、住吉街道の方、生國魂神社と勝鬘橋との間」ということのようです。
詳細は新説を信じるとして、徳川家康と秀忠からは黄金と時服を、松平忠直からは腰物を賜り、3800石まで知行を加増されたのは確かで、存分の恩賞を得た西尾仁左衛門は、その後、石地蔵を造り、幸村を弔い、幸村の兜、采配、薙刀を家宝として子孫に伝え、没後は上級家臣として存続、11代当主の時、廃藩置県を迎えたそうです。
その名高い真田幸村を討ち取ったのは、徳川秀康の長男松平忠直率いる越前軍の鉄砲足軽30人の物頭として従軍した西尾仁左衛門宗次(?~1635)で、はじめは甲斐武田家臣遠江国高天神城守将の横田甚衛門に属し、文禄2年(1593)に結城において結城秀康に知行200石で召し抱えられ、慶長5年(1600)の結城秀康越前国拝領にともない北の庄入りした時には、知行700石に加増されていたようです。
西尾仁左衛門はいかにして真田幸村を討ち取ったのか、についてはいくつもの説があり、‥渓寸嫁(1782)細川家記(小野景湛)では「鉄砲頭が幸村の首を取ったのは大手柄だ。しかし、傷を負い、疲れて倒れていた幸村の首を取ったのだからさほど手柄でない」、江戸時代初期「大坂物語」では「幸村が馬上で名乗りを上げていたところ、鉄砲で胸を撃たれ、落ちたところへ忠直の家来たちが折り重なり、首を取った」、1篳?固(1680)武辺噺聞書(国枝清軒)では「西尾が持ち運びに不便なため身元不明の首の鼻を削ごうとしていたところへ、幸村の叔父が通りかかり、鹿角の兜と前歯が欠けているのを根拠に幸村と認めた」、す掌融?總鞍勝峽陳晃聞書」では「家康に悪戦苦闘して討ち取ったと大仰に報告した西尾に対し、家康は、朝から戦いつづけていた幸村にそんな力が残っているはずはないと疑った」、サ?檻隠嫁(1727)落穂集(大道寺友山)では「家康が西尾に訊ねたがひれ伏したまま答えず、よい首をとったな、と褒めたものの、西尾退出後、あれは勝負して取った首ではないな、と言った」、昭和49年(1974)城塞(司馬遼太郎)では「西尾は名乗ったが相手は疲労で返事もできず、やすやすと槍で倒し、のちに幸村であると知り、奮戦した挙句討ち取ったと報告するも、家康は信じなかった」、Ь赦贈毅掲(1982)真田太平記(池波正太郎)では「幸村が近づいてきた西尾に手柄にせよと息絶え、首を取った西尾が鑓を合わせて討ち取ったと家康に報告したところ、嘘を見抜かれ、叱責された」ということになっていたようです。
全体的な印象としては、「疲労困憊していた真田幸村を倒し、首を取って家康に報告した」ということのようですが、福井市立郷土歴史博物館の調査により、松平文庫195「忠昌様大坂二而御戦功有増」に幸村の最期を伝える新説があり、「西尾仁左衛門が馬に乗り、敵陣の中に突き進むと小高い丘の上に敵がいて、互いに名乗りあって馬から下り、鑓を合わせるうち突き倒し、首を討ち取った。夕方、縁者と弟が陣中見舞いにきて、真田佐衛門佐の首だ、と言い出し、本多丹下成重と本多伊豆守富正に報告すると、松平少将忠直の耳にも達し、忠直もすぐさま家康に報告、その後、徳川家康、秀忠にお目見え、褒美金と時服を賜った。幸村の討ち死にした場所は、住吉街道の方、生國魂神社と勝鬘橋との間」ということのようです。
詳細は新説を信じるとして、徳川家康と秀忠からは黄金と時服を、松平忠直からは腰物を賜り、3800石まで知行を加増されたのは確かで、存分の恩賞を得た西尾仁左衛門は、その後、石地蔵を造り、幸村を弔い、幸村の兜、采配、薙刀を家宝として子孫に伝え、没後は上級家臣として存続、11代当主の時、廃藩置県を迎えたそうです。