


元禄5年(1692)三代藩主利直の時、弟の利昌に一万石を分封し、大聖寺新田藩を立藩、利昌は領地を持たない大名となり、宝永6年(1709)に寛永寺での勅使接待役を命じられ、同役の大和柳本藩主織田秀親に恥辱を与えられたとして、厠に立ったあとをつけ刺殺する暴挙に及び、前田家は震え上がったものの、咎は大聖寺藩には及ばず、利昌の切腹のみにとどまりました。
文政4年(1821)九代藩主利之が、大広間詰の大名の中で十万石以下は大聖寺藩だけであったことから、参勤交代の際、上使の挨拶がこないのは一人のみであるのが面白くなく、金沢からの援助もあって加増したことにより、格式が上がって虚栄心は満たされたでしょうが、それにともない出費がかさみ、急速に財政が厳しくなってしまいました。
金沢藩にとって、大聖寺藩は守りの最前線で、越前から攻め上ってくるのを想定して、規模の大きな小松城を再築したり、犀川の南側に寺を集積して備えていたり、用心深く防御を固めていて、家督を継承することを第一に、政治的配慮も怠らず、巨大大名としての地盤を堅固にする努力をたゆみなくつづけていたようです。
徳川家からの圧迫をどうにかしのぎ、百万石の文化の華が開き、その一方で、幕府からの積年の抑圧に対して、つねに気兼ねし、その強大な力に恐れおののいていたために、幕末の動乱期において、一旦は徳川慶喜を支持したものの、鳥羽伏見の戦いの趨勢を見て、すぐさま新政府に恭順するあたりは、機を見るに敏であり、形勢判断の的確さで勝ち馬に乗る術に長けた超一流の身の振り方で、百万石の面目躍如といったところです。