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白山信仰は、奈良時代、養老元年(717)に越前の僧・泰澄が登拝したことに始まり、平安時代には自然崇拝の山から神仏習合の山と仰がれ、天長9年(832)に信仰の拠点となる三馬場が成立し、山頂への禅定道が開かれ、日本独自に形成された山岳修行の場、古代の山頂遺跡や経塚は日本最高所、水の神、農耕の神、漁業の神、養蚕の神などの生業の神として信仰を集めてきました。
戦国時代以降は、白山の本地仏・阿弥陀仏への信仰が媒介となって、急速に真宗が浸透し、一向一揆によって地域が治められた時期を経て、豊臣秀吉の天下統一に功績のあった前田利家が加賀・越中を与えられ、徳川の時代になり、前田家による百万石の豊かさを背景とした文化が花開きますが、前田家は、一向一揆の僧兵に苦しめられた歴史を踏まえ、早くから神仏分離を進め、白山本宮を下白山の神社の形に変え、本殿周辺には、護摩堂や地蔵堂などが残されていたにも関わらず、神社における仏教関係の行事などは排除され、他の馬場。修験道と違い、神道化を進めていたようです。
明治時代に入り、廃藩置県が行われ、寛政8年(1688)幕府の裁定により越前平泉寺が治めていた山頂一帯は、幕府直轄となっていた山麓18ヶ村とともに石川県に帰属が決まり、廃仏毀釈により、山頂の社から本尊など仏像は白峰村などに下山して安置され、禅定道の石仏などは破壊されました。
平安時代、安元2年(1176)加賀目代の無礼に対し、叡山に訴え、御所に攻め込み、翌安元3年に加賀守と目代の処罰を勝ち取った白山衆徒や、室町時代、長享2年(1488)守護の冨樫政親を滅ぼして以後百年近く国を治めた一向一揆など、加賀の人たちには、はかなり熱い血潮が流れていたようです。
明治維新、大久保利通暗殺の情報を聞いた元薩摩藩士の初代大警視が、「石川県人にはできるはずない」と警戒せず、明治11年(1878)石川藩士らによって実行されてしまいましたが、歴史認識が少し甘かったのかもしれません。