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白山平泉寺歴史探遊館まほろばに、平泉寺の北に4kmほど離れた三谷遺跡から、土偶と岩版が出土したとして、速報展示が行われていました。
見つかった土偶は、2点とも板状にした粘土を切り落として製作された約4900年前の縄文時代中期後葉の時期のものだそうで、1点は頭部、左右の腕部、脚部に欠損が見られ、もう1点は1点目と同じ部位に加え、乳房が欠損が見られ、全国的に多く見つかっている状態と同じように、呪術や儀式で故意に破壊されたと考えられ、福井では、鯖江市下新庄遺跡、福井市三十八社遺跡で1点づつ出土していて、同時期のものとして三例目となるそうです。
福井県で初めて発掘された岩版は、長さ8.6cm、幅4,9cm、厚さ2,0cm、重さ110,9g、本来の形状は平面隅丸長方形の板状と考えられ、一部の面が砥石として使われたためへこみ、すべての面に丸い穴とそれをつなぐ網目状の線が刻まれ、熱を受けていることや、破損していることから、祭祀に護符として用いられ、何らかの行為がなされたとうかがえ、製作の時期は、約3500年前から3200年前、縄文時代後期後半から晩期初頭と考えられているそうです。
岩版も、石棒や土偶などと同じく、縄文時代の精神文化を象徴する祭祀の道具、東北から関東にかけて広く分布し、北陸でも新潟県上越地域で2遺跡、富山県で3遺跡、石川県で7遺跡で見つかっていて、何らかの形で交流があり、情報交換や交易が行われていた可能性もあり、文化面でも豊かであった縄文人の生活の様子、行動範囲なども推測することができそうです。
世界的に見ると、日本では稲作を始めるのが遅かったとされていますが、裏返して考えてみれば、狩猟採集で充分に食べて行けたということでもあり、縄文時代の人々は、土器を使って食糧の保管をし、煮炊きをし、食べられるものの幅がかなり広がり、住居を構え、その土地に定着することで文化も高まり、知恵や技術の優れた指導者層が組織としてのまとまりを強め、自然に対する脅威や感謝の念からある種の信仰を持ち、儀礼や祭祀も定例的に行われるようになって行ったものと考えています。