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主君の仇を討つ、忠義を果たすのは美談であって、心を揺さぶるからこそ、歌舞伎や文楽、映画、演劇、講談、歌謡曲などの題材に繰り返し取り上げられてきた赤穂浪士、元禄15年、本所吉良邸に討ち入った四十七士の墓は東京高輪の泉岳寺にあり、いまも多くの人が訪れて、線香の煙が途切れることはないようです。
元禄14年、赤穂5万石、三代藩主浅野長矩は、江戸城内において、高家旗本吉良義央に斬りつけ、切腹を命ぜられ、浅野家は改易、この処分に赤穂藩士たちは反発し、筆頭家老大石良雄を中心に、再興か、仇討ちかで紛糾しながらも、最終的に討ち入りの方向で一本化、幾人かの脱盟者を出すものの、元禄15年、本懐を遂げます。
そもそも、朝廷との儀式を重んじていた五代将軍綱吉から、東山天皇の使いのもてなし役に選ばれてしまったのがけちのつき始めで、17年前にはうまく立ち回れたものの、時代の流れとともに、慣例も少しづつ変えられていて、指南役の吉良義央が上洛から戻るのが大幅に遅れてしまったこともあり、正式との照合が行われないまま本番を迎えた不運が重なって、作法の間違いを指摘され、殿中抜刀の大罪にいたったのは、軽はずみなどではすまされないと承知の上ではなく、ついつい怒りに突き動かされて、それまでの鬱憤が一気に爆発して、暴挙に及んでしまったのでしょうか。
義理と人情をはかりにかけるまでもなく、命を懸けて仇を討つ、300人以上いた赤穂藩士の中から、最後まで残ったのは16歳から73歳までの義士47人、表門から、裏門から、倍以上のさむらいが詰めている屋敷に乗り込むのは忠義、吉良の首ひとつを目がけて、戦い、追い詰めるのも忠義、物置の奥に隠れていた老人を引っ張り出した時は、すべての労苦が報われた瞬間で、歓喜きわまったことは容易に想像がつきます。
額の傷は昨年の松乃廊下の刃傷の証、後世に敵役として語り継がれてしまったのは、さぞかし無念かもしれませんが、物事には立場によっても境遇によっても心情によってもいろいろな受け取り方があり、必ずしもわるいことばかりとも思えず、すべてはめぐり合わせのような気がします。