


蓮如の布教活動により、農民が村ごとの「講」で固く団結し、「講」を基盤として、坊主・国人・農民が連帯し、組織づくられたことが、のちの一向一揆に大きく貢献し、およそ1世紀にわたる「百姓のもちたる国」(実悟記拾遺)として加賀一国を支配、戦国大名にも劣らない武力と統率力を持ち得たようにも思えます。
蓮如は批判的だったようですが、文明5年に冨樫氏の内紛に介入、翌年、冨樫政親に加担して、守護代冨樫幸千代を追放した上、配下の者たちも追い払われましたが、政親が門徒に対し、攻撃を加えてくるようになったため、能登・越中の門徒と協力して、高尾城を攻め落とし、以降、名ばかりの守護を立て、実権は坊主・国人・農民の寄合が握っていたようです。
永正3年(1506)に、朝倉氏が越前に進攻した加賀一向一揆衆を九頭竜川の戦いで退け、吉崎の坊舎を破却、廃坊となり、多くの宿坊でにぎわっていた寺内町もさびれ、以後、一向一揆の中心は加賀に移り、天文15年(1546)に尾山御坊が建立されて北陸全体に影響を与え、最後まで抵抗した鳥越城など加賀・能登・越中で勢力を保っていたようです。
天正8年(1580)に、織田信長の命を受けた柴田勝家が尾山御坊を攻め落とし、ようやくのことで加賀一国を平定、北陸平定を目指したのは勝家のほか、佐々成政、前田利家、佐久間盛政といった歴戦の雄たちで、天正10年(1582)本能寺の変が起きる寸前まで戦いつづけ、一向一揆衆は時には打ち負かして、時には大打撃を与え、大いに手こずらせたものの、信長と11世法主顕如との和睦を口実に加賀一向一揆衆の首領たちが謀殺されてしまい、このことがなければ、さらに抗争がつづいたはずで、信仰の力はとてつもなく強大で、いくら戦乱の世とはいえ、農民たちが命がけで戦ったのに驚愕するのは、いまの日本が平和ぼけしてしまったからかもしれません。