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比良山地と丹波高地にはさまれた深い渓谷を琵琶湖の西北岸にそそぐ安曇川沿いの朽木谷、若狭から京に上る鯖街道は、古代から塩や海産物などの物流と、文化・政治面での人の交流、さらには関所が設けられた交通の要衝、12代将軍足利義晴が身を寄せていたり、朝倉義景と浅井長政に挟撃された織田信長がかくまわれたり、日本史にも登場する地名でもあり、この地を治めていた朽木氏は、鎌倉時代から明治維新までの長きにわたって支配者として君臨しつづけた稀有な存在、情報を分析して時代を読む知恵と先見の明のあるキレ者で、荒波を乗り越える世渡り上手でもあるように思います。
安曇川左岸にある朽木池ノ沢庭園は、三方面を傾斜面や川への断崖により隔絶された段丘地に、東西約60m、南北約175mの平面を整地し、露出した岩盤を取り込んで築山とし、山すそから湧き出る水を集めて、池泉と鑓水を造り、中島を設けたのには高い美意識に基づいた造形があらわれ、水口の石組や池尻の滝口の造形には、水への畏敬の念、信仰すら感じられ、設計者は桁違いの美的感覚と、卓越した土木技術、そして大勢の人足を指導する力を駆使して、農繁期と雪に閉ざされる合間をぬって、おそらく数年から数十年にかけて造成して行ったのではないか、と推測します。
これだけの規模の庭園を造るには、莫大な費用がかかったことでしょうから、木材の切り出しで財をなした豪商か、都の有力者か、朽木氏ともつながりのある大立者の経済面での助力があったようにも思えます。
庭園は、現在のようによそからやってくる観光客に見せるために造るものではなく、その地の支配者の権勢と栄華の結晶であり、ほんの一部の人が楽しむためだけの空間と考えると、訪れる客人をもてなす館はあった、と考える方が自然ではないでしょうか。
現時点では、12世紀後半に造られ、13世紀初頭に安曇川に侵食を受け、改修、13世紀前半にまた段丘面が崩落し、改修されたとしか明らかにされていませんが、もう少し発掘が進み、何か手がかりが見つかると、日本庭園史の初めの方の1ページを華々しく飾ることになるかもしれません。