昭和46年5月20日(木)福井県営球場、読売ジャイアンツ―ヤクルトアトムズ戦は、9回裏、2-5で負けていた読売は、1点を返して、なおも無死満塁と攻め立て、川上哲治監督は、ここで左の代打、広野功(富田中―徳島商―慶応大―中日―西鉄―読売―中日)背番号24を起用、その瞬間、福井県営球場はため息にも似たどよめきに包まれました。
小学3年だった私は、同級生の友人とともに、近所の理髪店主からもらった3塁側内野スタンド券で見ていましたが、周囲にヤクルトファンは皆無という状態で、読売ファンの友人が、「広野って知ってる?」と訊いてきたので、「知らん」と即答すると、「こりゃアカンは」などと不平を言い、それが平日の真昼間にもかかわらず、スタンドを埋め尽くした2万を超える観客の大方の反応でもあったかもしれません。
3塁に王、2塁に長嶋、1塁に黒江と塁を埋め、ヤクルトのアンダーハンドの会田照夫が投げ込んできたボールを強振すると、みるみるライトスタンド方向に飛んで行き、右翼手が2、3歩下がったのが見えた次の瞬間には大歓声に包まれ、総立ちになった観客は興奮のうずとなって、ほぼ全員が読売の勝利を喜んでいました。
広野功外野手は、昭和40年に始まったドラフト制度の1期生で、ドラフト3位で中日に入団、ルーキーイヤーの昭和41年8月2日中日球場、読売が5-3と2点リードで迎えた9回裏、二死満塁で読売のドラフト1位の堀内恒夫投手からバックスクリーン右へサヨナラ満塁本塁打を放っていたことを、のちに知りました。
代打サヨナラ逆転満塁本塁打は、当時、樋笠一夫、藤村富美男に次いで史上三人目の快挙、サヨナラ満塁本塁打2本は広野功のみの記録だそうです。