


城の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、延応2年(1240)有漢郷の地頭・秋葉三郎重信により大松山に砦が築かれたのを始まりとして、その後、小松山に移り、天正2年(1574)当時の城主・三村元親と毛利・宇喜多氏との戦い・備中兵乱が起こり、三村氏は滅亡、毛利氏の東方進出の拠点となり、毛利氏が退いたのち、備中国奉行として赴任してきた小堀正次・正一父子により改修がなされ、以降、池田・水谷・安藤・石川・板倉氏と城主が変遷し、明治維新を迎えますが、現存する天守などは、天和3年(1683)水谷勝宗によって修築されたもののようです。
備中高梁駅から、頼久寺庭園を見たあと、武家屋敷を通り抜け、観光地図を頼りに歩いて備中松山城に向かいましたが、クルマのすれ違いが難しそうな舗装された道から、「備中松山城への近道」と矢印が出ていて、地図には遊歩道と書いてあった山道に分け入り、ぼちぼちと登って行きました。
途中、元禄7年(1694)浅野長矩に代わって城の明け渡しを求めてやってきた大石良雄が腰かけたという大きな石が残っていましたが、大石内蔵助ほどの人でも休みたくなるような山道では、そのいわれを読む前に、すでに腰をおろして休憩していました。
駐車場のあるふいご峠から、さらに20分ほど登って、豪壮な石垣が見えた時には思わずため息がもれ、またさらに登って天守が見えた時には、感動というより大きな安心感に包まれ、どうにかこうにかたどり着いた達成感に充たされました。