


越前朝倉氏は、鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏につき、新田義貞討伐に戦功のあった朝倉広景を祖として、黒丸城を賜って越前に根を下ろし、斯波氏の重臣として仕え、7代当主孝景の時に、応仁の乱で西軍から東軍に寝返り、武勲を立て、斯波氏から領土を奪い取り、通説ではその時から一乗谷に居城し、越前を武力によって統一し、勢力を拡大、以後、織田信長に滅ぼされる11代当主義景まで100年余にわたって、足羽川の水運を利して交易で栄え、京に肩を並べるほどの文化の華を咲かせました。
諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園には力強く豪壮な石組があり、さぞかし素晴らしい庭園だったのだろうと思い切り想像はしてみるのですが、さすがに石組から全体を推察するほどの知識もなく、あまりにも手がかりのなさに呆然と立ち尽くすのみ、石を運んでくるのも大変だったでしょうねえ、というまるでアホの感想を述べるのが精一杯でした。
室町時代末期、朝倉義景にも天下取りの好機が訪れたのですが、動くべき時に動かず、打つ手がことごとく裏目に出て、ついには織田信長の命を受けた柴田勝家に攻め込まれ、義景は大野へ落ち延びたものの自刃、火を放たれ、栄華をきわめた一乗谷は三日三晩燃えつづけ、灰燼に帰したと伝えられています。
戦国大名としてはぼんくらだったかもしれませんが、京都の公家や文化人と交流し、連歌や和歌、茶道などのたしなみもあり、遊興三昧、側室との愛欲にふけっていたのが出陣しなかった理由との説もあり、好きなものに囲まれて、何不自由ない暮らしのできた田舎の風流な殿様として、最高の人生だったのではないかと思い、魅力的な人だったのだろうとうらやましくもあります。