


およそ7万平米の広大な敷地には、琵琶湖に見立てて蓬莱島と竹生島を配した大泉水を中心に、東を木曽川、龍田川、南側の川は大堰川、それにかかる橋は渡月橋と京都嵐山にちなみ、堤は中国杭州の西湖の堤に見立て、朱塗りの通天橋、丸い石橋の円月橋、音羽の滝に白糸の滝、梅林や紅葉林のほかにも樹木は鬱蒼と繁り、季節に応じてフジやカキツバタ、ハナショウブなどが花を咲かせ、光圀が史記を読み感銘を受けて伯夷・叔斉の像を安置した得仁堂などなど、見どころは満載です。
漢文の素養に裏づけられた中国趣味も教養の高さを表していますが、稲田を作って、農民の苦労を教えようとしたところに徳のある気高い人間性、上に立つものとしての自らを律する崇高さを感じます。
光圀が隠居後を過ごした西山荘でも田んぼを作り、領民と親しく交流したとされていますが、そうした考え方が9代藩主斉昭の民とともに楽しむという偕楽園の作庭にもつながって行ったのだと思います。
頭が下がるのは、印籠にではなく、後光の差すような人徳に対してであって、学問を修め、広い見聞と深い知識、ひときわ高い見識で残された功績にひれ伏すばかりです。