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明治30年12月3日に初版発行、明治34年6月9日に修正6版が発行された「訂正新編帝國読本高等科修正巻二」という文部省検定済の高等小学校国語科児童用教科書に「高田屋嘉兵衛」が取り上げられていました。
明治14年に制定された小学校教則綱領によると、小学校は初等科3年、中等科3年、高等科2年となっていて、高等科児童は、現在なら小学校を卒業し、中学1年生に相当する年齢で、この教科書の「巻二」となっているところを見ると、根拠はありませんが、高等科2年生用に作られていたと考えられます。
「第三」に登場する高田屋嘉兵衛は、身体は頑健、胆太く、眼光鋭く、弁舌さわやか、大義に通じて、報国の志厚い人だったようで、寛政11年、幕府の命を受け、択捉島に渡り、居住民に漁業を指導、17カ所の漁場を開き、享和元年、その功をもって禄を受け、しばしばここを往来して、富み栄え、松前と函館に支店を開くまでになったそうです。
その頃、ロシア人が得撫(ウルップ)島、択捉島にきて、家を焼き、略奪、乱暴狼藉の限りを尽くしていて、ある夜、嘉兵衛は得撫島から松前に出航、朝方、2、30のロシア人が小舟に乗って、鉄砲を撃ちながら、嘉兵衛の船に漕ぎ寄せ、「会釈もなく」乗り移ってきた際、嘉兵衛はこれを一喝、手向かう者はなかったのだが、この件を機に、互いに言葉が通じないでは事情もわからないと考え、干察加(カムチャツカ)に行って、ロシア語を習得、両方の間に入って周旋し始めたら、紛争も穏便におさまったということです。
幕府は嘉兵衛の功を賞して黄金若干を賜い、ロシア人側の大将も書を著して、「其勇気ありて、報国の志、厚きを褒めたりとぞ」と結んでいます。