1984年夏、木内幸男監督率いる取手二高が、桑田・清原な ど超高校級の選手を揃えたPL学園を延長10回の熱闘の末、8-4で振り切って初優勝した。
その年、私は分倍河原に住んでいて、初台にある百貨店の検品センターでアルバイトをして、大学入学資格検定を受けようと、仕事のあと、遅ればせながらの勉強を少しばかりしていたのだった。
アルバイト先に、茨城県下妻市出身の明治大学に通う人がいて、高校野球の実況をラジオで聞きながら、取手二高の戦いぶりに自分の人生がかかっているかのように応援し、決勝のPL学園戦は仕事どころではなく、ラジオにかじりついてリードしては大喜びし、追いつかれては落胆するという、心臓麻痺を起こして救急車で搬送されてしまうのではないかと思われるほど熱狂し、優勝の決まった瞬間には感動のあまり、涙を流して喜んでいた。
木内監督は、基本に忠実な采配ながら、ここぞという時には控え選手を出場させ、結果を残すという、それまでの高校野球はレギュラーで戦うもので、選手交代は負けゲーム、思い出づくりに近い印象を持っていただけに、敵をとことん研究し、自分のチームの選手の技術から性格まで知り尽くした大胆な起用法には驚愕し、魅了された。
ギターを始めて、友人とコンビを組んでライブハウスに出ていたものの、プロになれるような実力がないことは自覚していて、中途半端な生き方しかしていない私は、13科目14教科を都立蒲田高校に受検に行き、10月に合格通知が郵送されきたので、二部の大学に行く選択をした。
その年、私は分倍河原に住んでいて、初台にある百貨店の検品センターでアルバイトをして、大学入学資格検定を受けようと、仕事のあと、遅ればせながらの勉強を少しばかりしていたのだった。
アルバイト先に、茨城県下妻市出身の明治大学に通う人がいて、高校野球の実況をラジオで聞きながら、取手二高の戦いぶりに自分の人生がかかっているかのように応援し、決勝のPL学園戦は仕事どころではなく、ラジオにかじりついてリードしては大喜びし、追いつかれては落胆するという、心臓麻痺を起こして救急車で搬送されてしまうのではないかと思われるほど熱狂し、優勝の決まった瞬間には感動のあまり、涙を流して喜んでいた。
木内監督は、基本に忠実な采配ながら、ここぞという時には控え選手を出場させ、結果を残すという、それまでの高校野球はレギュラーで戦うもので、選手交代は負けゲーム、思い出づくりに近い印象を持っていただけに、敵をとことん研究し、自分のチームの選手の技術から性格まで知り尽くした大胆な起用法には驚愕し、魅了された。
ギターを始めて、友人とコンビを組んでライブハウスに出ていたものの、プロになれるような実力がないことは自覚していて、中途半端な生き方しかしていない私は、13科目14教科を都立蒲田高校に受検に行き、10月に合格通知が郵送されきたので、二部の大学に行く選択をした。