小学生のころ、父親の職業を訊ねられるのが、とてもいやだった。
「日本一の日雇い人夫です!」と巨人の星の飛雄馬のように、誇りを持って、堂々とヤケのヤンパチで言い切ることができたら、どんなにか幸せだっただろう。
私の場合、引っ込み思案な田舎の子供だったので、いつも口ごもってしまっていた。
小学校に提出する家庭環境調査票には、「音楽講師」と書いていた。
実際、10時から18時まで、ブラザー音楽教室で電子オルガンを教えるということで、毎日自転車で通勤していた。
一旦帰宅し、夕食をとったあと、また自転車に乗って、ネオン街へと出かけて行った。
飲み屋で電子オルガンを弾いたり、酔客の歌の伴奏をしたりして、0時半ころに、帰ってくるのだった。
まだ、弾き語りや流しの時代だった。
当時、カラオケはまったく普及しておらず、自分で歌う客も少なかったようだ。
家の二階には、スチールギター、ベース、リズムボックスなどがところせましと置いてあった。
それを一人で演奏し、オープンリールに重ねていって、それを8トラックに録音をして、飲み屋に置かせてもらっていた。
ジュークボックスに100円玉を入れると、父親特製のカラオケ演奏が一曲流れ出てくる仕組みになっていた。
父親のアイディアがどこからわいてきたものか、亡くなったいまとなっては知る由もないが、ある意味で起業家だったのだろう。
青焼きコピーで、チラシを作って、ネオン街を軒並み営業して歩いたようだが、採用してくれたのはたった一軒、しかし地元で手広くやっている大きな会社だった。
商業的に成功とはいいがたく、経済的にはいつもかつかつでやっていたが、好きなことをして生活をしていたのだから、悪い人生ではなかったのだろうと、私も、いまになって思う。
子供のころは、それが恥ずかしく、いやでいやでたまらなかった。
朝、会社へ行って、夕方には帰ってくるという普通のサラリーマンの家庭がうらやましかった。
友達の家へ遊びに行くと、その親にたいがい質問されるのだが、満足に答えられないのだった。

  おさけは ビールの缶がいい
  さかなは もらったウニでいい
  おんなは ごっつい人がいい
  あかりは ぼわっとともりゃいい

  がつがつ呑めば がつがつと
  忘却だけが 身の救い
  はなみずどろりと ながれたら
  唄いだすのさ ヒップホップを
   
   となりの野郎に 裏書きさせてよ
   手形乱発 夜逃げする ナンチャッテ

  店には客など だれもない
  借金取りなど こなきゃいい
  流行りの芸でも 見せたろか
  ゲッツ 残念 なんでだろー

  どんより呑めば どんよりと
  恥の数だけ 多すぎる
  あのころ オヤジを想ったら
  唄いだすのさ ゲロ唄を
  
深夜、ウイスキーを傾けながら、こたつにあたり、ヘッドホンをして、カセットテープから譜面を起こしていた父親の姿を、時々思い出すことがある。
いつも反発ばかりして、何も親孝行ができなかった「日本一の親不孝者」。
せめて「オヤジの思い出」でも書き残しておくことにしようかな。
ろくな話がないので、さらに親不孝を重ねることになりそうだが。