私の長年の友人Kくんが、2/1に亡くなった。寝ている間に心臓発作で亡くなったと言うことらしい。思えば、私が大学に入学して初めて千葉の市川のぼろアパートで一人暮らしを始めた頃、念願のバンドをやりたくて(大学にはそう言う人は居なかったし、サークルも無かった)、恥ずかしながら、パンク雑誌DOLLにバンドのメン募を載せた。その時に、当時、津田沼に住んでいたKくんが連絡をくれた。彼は当時、The Jamのファンで、リッケンバッカーのギターを持っており、カセットデッキとプリペイドギターを使って、自分の作品も作っていた。同い年と言うこともあり、よく連んで遊んでいた。レコードを買っては交換したり、ダビングしたり、また、当時、面白いバンドが沢山出ていた法政大学学館ホールにも、別の友人Hくんと3人で、よく観に行ったものである。Kくんの発案で、Kくんの知り合いもHiさんも含めて、4人ソロによるオムニバス・カセットを作ろうとなった。当時、私はSelf•Planという自主レーベルをやっていたので、タイトルはズバリ”Self•Plan Omnibus”とした。10分テープに持ち時間2分半で、各人のテイクを入れると言う企画だった。テクノポップあり、インダストリアルあり、プリペアードギターありの面白い作品となり、ジャケはKくんの書いた油絵のカラー写真を切って使った。Fool’s Mateの「日本の音楽」でも好評であった。私は1983年に自分がノイズミュージックに専念する為、Self•Planとは別にKinky Tape Collectionを新たに始めたのだが、Kくんたちの発案で、当時の皆んなのネットワークを最大限に活かして、60分テープのオムニバス「恥ずかしい人生」を作った。それが1983-4年くらいかな? これは、ジャンルはバラバラであったが、意外にも好評であった。また、Kくんの通う大学の学園祭にも、即席パンドで何回も出させてもらった。流石に市川から国分寺までは遠かったけど、楽しいひと時を過ごせた。

暫くして、私は学業に専念する/医学が面白くなってきた為、音楽活動を一時ストップした。それでもKくんとの付き合いは続いていた。ある時、友人を紹介するからと、C.C.C.C./ASTRO の長谷川くんを紹介してもらった。長谷川くんとはそれからの付き合いになった。Kくんは家庭の事情で、お姉さんと二人で高円寺に引っ越したが、そのアパートにもちょくちょく行ったものである。そこで架空のパンドの話しや音楽の話をして、大笑いしたり、うんうん頷いたり、、、楽しい時間であった。そんなある日、彼は両親が居る岐阜に帰ることになったと。音楽仲間みんなで、壮行会らしき飲み会を下北沢(?)でやったっけ。岐阜に移ってからはやや疎遠になったが、偶に東京にライブで来た時は、会ったりしていたし、私が名古屋でライブをやった時には観に来てくれたりした。そうそう、RNAを幡ヶ谷Forestlimitでやった時も観に来てくれた。全然変わってなくて、嬉しかったなあ。そんな気さくでフットワークの軽いKくんと最後に会ったのは、2年前に岐阜で病理学会中部支部が行われた時であった。久しぶりだったが、私の時間がタイトであったので、学会が終わった2日目に昼ごはんを一緒に食べた。なんだろう。私には大学の時の友人もいるが、それとは別に、同級生の様な親しみを感じる友人がいる。それが、KくんやHくんである。一年ほど前からFaceBookを始めたらしく、小まめに「いいね」したり、好きなF1の書き込みしたりして、また、リアルとは違った親しみを感じていた。そんな彼が唐突に亡くなった!信じられないほどの喪失感を感じた。まだ、58歳なら若いのに。まだ、現役で音楽もできるのに。今でも、ヘラヘラ笑いながら、冗談みたいなことを言っているんじゃないか?と錯覚する位、唐突な別れであった。去年の5月にオンライン飲み会をやったが、KくんはWiFiの環境でもないのにやっていて、何度も落ちたね。それはそれで楽しかったな。その後も、ダブって買った現音系のレコードを買ってくれたりした。それが最後だったかな。きっとあの世でも冗談言って笑ってるんだろうな。彼のパンド「ひがみ」の音源が出せなかったのが心残りだ。んじゃ、バイバイ❗️