私がパンクを聴いてから、本格的に音楽にのめり込んだことは前回、書きましたが、更にのめり込むのは、大学生になって千葉(市川市)で下宿してからですね。お金はなかったけど、毎月、1〜2枚アルバムやシングルも買っていたし、DUなどで輸入盤を購入できたことが大きかった。また、自主制作盤(敢えてインディーズとは言わない)やカセットを購入できたことで、何より自分でもやれるんだと勘違いしてしまったんですね。高校生と時、買ってもらったYAMAHA CS-10とコンボオルガンに、新たに購入したベースギター、リズムボックス(旧式Dr.Rhythm)、下宿の友達から騙し騙し借りたギター(のちに自分で中古のテレキャスやクラリネットを購入した)で、これまたお年玉を叩いて叩いて買ったTEACの4chカセットレコーダーを使って、とりあえず多重録音を始めた訳ですよ。最初はパンチアウトとかパンチイン、ピンポン録音すら出来なかったけど、そのうち、色々試して録音する様になりましたね。私は機材を買うと、まずちゃんとしたメロディのある(?)曲を作るんですが、その時も、Kimihide Kusafuka名義で”Infinite Monotone”とHospital In Vain名義で”Reborn”をつくりました。まだ、マスターにするカセットデッキがなかったので、マスターはラジカセに落としてましたね。しかも、それらの作品はSelf・Planというレーベルを立ち上げて、すぐ様、DUに持ち込んで委託で売り始めるという暴挙に出た訳です。その頃は、お金もなかったので、単純な白黒コピーのジャケですよ、ペラペラな紙の。何本が売れたみたいですが、回収しなかったのが惜しかったかな? そのうち、ノイズというジャンルがあったからなかったかの頃だったので、更に色々実験して録音してましたね。あと、Papa’s Muderとかも名乗ってましたね。ジャンルとしての「ノイズ」の語源についてはまた、別の機会で書きたいと思う。ただ、この時期(1980年代初頭)にもノイズという形容はあったように思う。それで転機が訪れたのは、RolandのSH-101シンセを買ってからですね。これがシーケンサー付きで、かつ、Dr.Rhythmとも同期できたことが大きかったですね。それで作ったのが、Kimihide Kusafuka名義の”Re-Musik”(同時期、DD.RecordsのT.Kamataさんも”Re-Music”と言う作品を出していた!シンクロニシティ!)とTechno Menses名義の”Requiem In The Sun”ですね。これはある意味、ノイズ以外のちゃんとしたテクノポップ(後者のコンセプトは軍歌をテクノで演るです)でした。この頃になると、同じ大学生がやっていたDD.Recordsなんかとも繋がりが出来て、そこからも出してもらったりしました。更に言うと、Techno Mensesの作品は海外のレーベルAeonからも配給されました。
  こんなこと書いてると、まるで、ノイズとは関係ないじゃん!ってなるかもしれませんが、先述のSH-101やテレキャスのギターを買ったことから、音の出るものはなんでも使うというコンセプト?の元に、ノイズ・ミュージックのアイデアを練っては録音することを繰り返していました。大学教養部には殆ど行かず、日夜、録音してましたね。特に影響を受けたのが、M.B.の”Das Testament”とNocturnal Emissionsの”Viral Shedding”でした。特にM.B.の音響処理は当時は全く理解できなくて、「いつかこんな音出したいなあ」と憧れつつ、それに近い作品3部作”ZombieAnatomy”を作りました。この頃は、Self・Planではなく、K2の作品を出すレーベルとしてKinky Tape Collectionを立ち上げて、主にメールアートの世界で活動してました。M.B. に習って、K2としてのライブは一切やっていませんでした。ホントに郵便で、作品を交換したりする閉鎖的ネットワークの世界で活動してました。営業力の無さを痛感してから、委託もやっていませんでした。この頃になると、カセットデッキも2台になり、ダビングもし易くなりました。あっ、そうそう、何故、K2なのかですが、これも色んな所で言ってますが、マウリッツォ・ビアンキがM.B.なら、草深公秀はイニシャルがKKだからK2にしようというミーハーな命名なんですよ。しかも当初は「Kの二乗」という表記でした。そんなこんなで、1983年一杯までを過ごしました。最後の方は、頼みの4Ch レコーダーが壊れたこともあり、デッキ2台、ミニカセットテープ、クラリネットあるいはギターで一発録りした作品も出してましたね。あとは、騙し騙しドラムとかも入れて作ったテープ作品とか。ここら辺は極初期のMerzbowの影響も大ですね。そうこうしているうちに、学業が忙しくなったのと、専門課程に上がって、基礎医学(特に解剖学とか病理学)が面白くなって、そっちに自分の時間をシフトさせていき、音楽活動は一旦停止しました。ここまでが、第一期K2ですね。続きはまた。
K2 “Kinky Tape Collection 1981-1983” 2LP re-issue


Techno Menses “Requiem In The Sun” c-46 (original)


Techno Menses artwork

Kimihide Kusafuka “Re-Musik” c-46


K2/Kimihide Kusafuka “Demise Symphonika” c-46

K2 “Student Apathy” c-30. 1st tape

K2 artwork

Papa’s Murder “Fuck’N’Fall”. c-20