岡谷繁実小伝 その1 | かんがくかんかく(漢学感覚)

岡谷繁実小伝 その1

今回は、『名将言行録』などの著作で知られる岡谷繁実

(おかのや・しげざね、1835-1919)の履歴を紹介したいと

思います。


→岡谷に関係するこれまでの記事はこちらです。

 1)  鎌倉宮 の宮司としての晩年の活動。

 2)  旧主秋元興朝 との関わりについて。



     



その履歴を探る最も重要な史料は、繁実自身が明治33年

(1900)に書き記した自筆の履歴で、これは繁実自筆の日記

『繁実日記』第五冊(個人蔵)に収められています。

多少の記憶違いや誤記を含んでいるものの、根本史料と

なるもので、以下の記事も多くはこの履歴によっています。



     


繁実は天保6年(1835)3月12日、館林藩士岡谷繁正

長男として生まれました。岡谷の家は、概ね使番から

進んで取次役に至る上級藩士の家柄で、弘化4年(1847)

に36歳で死去した父繁正も取次役となり三百石の家禄

のほかに十人口を賜っています(『重修岡谷家譜』)。

母は太陽寺盛盈の娘で、太陽寺氏も五百石の家禄を

賜る上級の館林藩士でした。


幼名を鈕吾と称した繁実は、弘化4年に父繁正が急逝した

ため家督を継承し、広間番方に出仕して三百石を賜ることに

なりました。時に13歳の時のことです。


次いで嘉永5年(1852)、18歳で江戸に遊学した繁実は、

藤井重作友信に西洋砲術を学び、翌6年4月25日に

使番を命じられ、9月には正式に江戸詰を命じられて

家禄の他に「江戸扶持」として十人口を賜り、日本橋

浜町にあった館林藩の中屋敷に詰めることとなりました。


こうして4年ほど江戸で暮らした繁実でしたが、安政3年

(1856)正月11日に「独礼席」となり、館林にもどって

大名小路に屋敷を与えられています。

この「独礼席」というのは、藩主に単独でお目見えする

ことができる資格で、お目見え以上の藩士の中で

最も高い待遇でした。


さらに翌安政4年5月には藩の大目付に進みましたが

6月15日にはこれを辞し、再び使番となって水戸に遊学し、

水戸学の青山延光の塾に学び、さらに再び江戸に出て

昌平黌に入り、次いで田口文之(江村)の門人となり、

万延元年(1860)4月2日に館林に戻りました。


そして4月23日、取次役に昇進した繁実でしたが、

程なく8月に藩に無断で上京し、これが原因となって

謹慎・逼塞を命じられることとなります。


この間の事情については、次回の記事で紹介します。