森田節斎『桑梓景賢録』 | かんがくかんかく(漢学感覚)

森田節斎『桑梓景賢録』

今回は、節斎・森田益(すすむ、1811-68)『桑梓景賢録』の写本を

紹介します。


森田益は、文化8年(1811)11月1日大和国五条(現、奈良県五条市)

において森田文庵の次男として生まれました。

父の文庵は医者で、幼い頃から学問に親しんだ(すすむ)も十五歳

の時にに出て、猪飼彦博(敬所、1761-1845)や頼襄(のぼる、山陽、

1780-1832)に学び、さらに江戸に出て昌平黌で学んでいます。


その後、京都に戻った森田益は安政2年(1855)に塾を開き、子弟の

教育に従事しました。その門人には、勤王を唱える志士が多く集まり、

長州の吉田矩方松陰、1830-59)もその一人です。


しかし文久3年(1863)にいわゆる「天誅組の変」が起こると、二名の

門人がこれに加わったため、幕府の嫌疑を受けた森田は京を追われ、

紀伊国に逃れ、私塾簡塾を開いて門人たちを教育し、慶応4年(1868)

7月に没しました。


その業績は、以前に何度かこのブログで紹介した森田の門人四屋恒之

らの手で『節斎遺稿』(全2冊、1882年)として出版されているほか、

故郷の五条市からは田村吉永(編)『森田節斎全集』(1967年)が

刊行されています。


これらが刊行される以前においては、森田の著作は書写によって

伝わっていましたが、それらのうちで現在に伝来して所在が明らか

なものは比較的少なく、今回紹介する架蔵の『桑梓景賢録』

他には財団法人無窮會 の織田文庫に写本が所蔵されるのみです。



     
     架蔵『桑梓景賢録』(明治13年写)の表紙


     

     同・表紙見返し、第1丁表

     

     同・第1丁裏、第2丁表

     
     同・第30丁裏、第31丁表.嘉永四年の跋文があるのは、

      無窮會本と同様.

     
     同上末尾の書写奥書.



以上今回は、架蔵の森田節斎『桑梓景賢録』を紹介しました。