木村正辞と歌の道―『名家文話』より― その3 | かんがくかんかく(漢学感覚)

木村正辞と歌の道―『名家文話』より― その3

今回は、これまで二回にわたって紹介してきた木村正辞

(まさこと、1827-1913)「木村正辞老大人歌話」の続きを

紹介します。


  →その1  中世の歌論についての批判

    その2  近世歌学の発達について



今回紹介するのは、木村が和歌の形式とその歴史的展開に

ついて概説した部分です。

それでは早速、本文を読み進めていきましょう。


   歌は神代よりのものなれ共、上古は文字の数も定まり

  なくて、事柄の長きは長く歌ひ、短きはみじかく歌ったこと

  ですが、この長歌・短歌の外に片歌と云ふものが有ります。

  この片歌と云ふものは、五七七にて一うたとするもので

  有ります。又旋頭歌と云ふものが有りますが、これは

  五七七五七七と重ねて、一うたとするので有ります。


   然れども此の歌は、調べのたより宣しからざるゆゑにや、

  其の歌どもの今の世に伝はりたるものは甚だ稀れで、

  長歌短歌の如く多くは有りませぬ。統べて物は優勝劣敗の

  原則に漏れぬことで、彼の歌も矢張り左様です。三十一文字の

  歌の古も今も多く人の読めるは、必ず比較的其の調べの

  他の歌に勝れて、よき処が有る故で有ります。


   長歌は万葉時代の歌を以て勝れたりとするも、扨て、

  之を学ばうとするには、仲々どうして容易の業では有り

  ませぬ。是故に後世古今集以後の調を学ぶものがあって

  も、其の多からざる理由は、全く其の調の劣って居る故で

  有ります。古今集以後の長歌は、今様体の調でげすから、

  どうも雄壮活発の気韻に乏しく、女々しくて皇国の御手振

  として、後世に伝ふるには、適当しませぬ。

   扨て又短歌と雖ども、万葉時代の歌には、至て勢の有る

  ものが有りまして此時代の歌の如きは、甚だ雄壮活発なる

  語気に富んで居ります。今其の一つ二つを挙げて云はん

  に、元明天皇の御製に


    ますらをの 鞆の音すなり ものゝふの

               大臣【おほまへつきみ】 楯立らしも


  御名部皇女奉和御歌


    吾大王【わがおほきみ】 ものなおぼしそ 皇神【すめがみ】の

               つぎてたまへる  吾なけなくに


   是れは、此の時陸奥・越後の蝦夷どもが叛きたればとて、

  明年討手を立てらるべきにより、其前年即ち和銅元年、其

  御軍の調練をする節、其の矢さけびの音を宮中にて聞召され、

  大御心を悩まされ給へるによりての御製にて、鞆の音の

  聞ゆるは、定めし是れ今や諸将が弓を射楯を立て、調練を

  するならむとの御意にて、天皇御即位の初より、かゝる

  凶事の有ることを嘆かせたまひての御製なり。

   また御名部皇女の和へ奉りし歌の意は、吾大王には

  物思ひたまふことなかれ、幸はひに皇祖神たちの御魂

  たまひて、君につぎて吾もあることなれば、如何なること

  ありとも、吾あらんかぎりは、決してご心配は懸くまじき

  との御意で有ります。


   此は女帝と皇女との御贈答たるに過ぎざれども、男子も

  及ばざる程雄壮活発なる御歌であります。これを以ても

  後世の御歌の柔弱なる女々しき姿なるは、皇国固有の

  御手振にあらざる事が知られます。



木村は、和歌の上では万葉集の注釈と研究に大きな足跡を

残しましたが、この文章で展開されている歌論からも万葉集に

対する入れ込みようが分かります。



     
     木村による『万葉集』の選釈の一つ『万葉歌百首講義』




木村の万葉集論はさらに続きますが、それはまた次回に

紹介します。