『鹿児島英雄銘々伝』―明治の草双紙― | かんがくかんかく(漢学感覚)

『鹿児島英雄銘々伝』―明治の草双紙―

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ブログネタ:好きな絵本・童話は? 参加中
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今回は「好きな絵本・童話は? 」ということで、江戸時代から明治の

初年にかけての「絵本」にあたる草双紙の中から、西南戦争に参加

した人々を描いた『鹿児島英雄銘々伝』を紹介します。



     
     『鹿児島英雄銘々伝』第一丁裏・第二丁表



江戸時代から明治の初期のごく一般的な人々にとって、「絵本」と

いえばまずは草双紙で、その内容も多岐に渡っています。


今回紹介する『鹿児島英雄銘々伝』の著者は、数回前の記事 にも

登場した西野古海 ですが、やはり西南戦争に題材を取って西野が

編纂した草双紙には、ほかに『鹿児島征記』(全2冊)、『鹿児島追討記』

(全6冊)、『薩賊追討記』があります(いずれも木村文三郎より明治10年

に刊行)。


本書『鹿児島英雄銘々伝』も、明治10年10月に木村文三郎より

刊行されたもので、その奥書には次のように記されています。



  明治十年九月十一日 御届

  発兌明治十年十月

           編輯者 西野古海

                 第四大区一小区錦町一丁目十五番地

           出版人 木村文三郎

                 第一大区十二小区馬喰町二丁目一番地




それでは早速、『鹿児島英雄銘々伝』の本文を見ながら、当時の

草双紙がどのようなものかを紹介します。


本書の表紙を捲ると、巻頭には「鹿児島英雄銘々伝 初号」の

内題があり、そこには西郷隆盛が描かれており、その略伝が

次のように記されています(第一丁表)。


  西郷隆盛

  鹿児島の産』にして、吉之助と』称す。徳川の末、』

  幕府の』嫌疑を受て身を措【さしお】く所』なく、入水

  せしが、幸に死せざることを』得たり。尋【つい】で維新

  の初め、一二の功臣と』なり、従三位陸軍大将の栄を

  辱うせり。一旦廟議の』合ざるに、遂に無名の師を起し、

  逆賊の魁首となれり。



次いで第一丁裏から第二丁表にかけては、「鹿児島の賊魁等

軍議評定図」と題された挿絵となり、西郷・桐野利秋篠原国幹

の三名が軍議を行う様子が描かれています。


以下この『鹿児島英雄銘々伝』は、その書名が示す通り、

西南戦争で「薩軍」として戦った人々の絵と略伝を載せる

形で展開していきます。


今回は、その中から桐野利秋村田新八と共に西郷を支えた

篠原国幹とその部下本田久ヱ門を描いた部分を紹介します。



     


これは、篠原を描いた箇所で、絵の上に記されている文章は

次の通りです。


  篠原国幹

  鹿児島の士にして、維新の』初、戦功を立て、陸軍少将』

  に任ぜり。然るに、西郷隆盛』巣里に帰るに及で共々』

  帰国せしが、今回【こたび】逆』徒首謀の一に加はり、』

  肥後国玉名郡』田原坂に』於て、官』軍の銃丸に中【あた】り』

  没命せりといふ。



次に、篠原の部下でやはり「薩軍」に加わった本田久ヱ門

描いた部分をみてみましょう。


     


戦死した主人篠原の首を提げ持って泣く本田の姿が描かれて

おり、次の文が配されています。


  本田久右ヱ門

  篠原国幹の僕にして、膂力【りょりょく】人にすぐれ、』

  且忠義の志し篤く、』戦地にしたがひ、』昼夜主人の』

  側をはなれず。』然るに国幹』運つたなく山鹿の露』

  と消しかば、本田は泣々【なくなく】』主人の首級を

  古郷にもちかへり、南林寺に埋葬し、』○以下下段、

  その』夜、髻』をはら』ひて』主の』菩提』を』弔ふと』

  いふ。



明治時代の絵本はいかがでしたでしょうか。

明治の草双紙といえども、近年では数が少なくなっている

ようですが、どこかで見かけましたら、手にとって御覧になって

みて下さい。


以上今回は、「好きな絵本・童話は? 」ということで、西野古海

『鹿児島英雄銘々伝』を紹介しました。