官僚の辞表の書き方―服部為雪の場合― | かんがくかんかく(漢学感覚)

官僚の辞表の書き方―服部為雪の場合―

今回は、明治時代の官僚が書いた辞表を通して、

その文面に表れない面白い点を紹介します。


まず、明治15年(1872)11月30日に太政官修史館

二等繕写服部為雪が内閣書記官宛に提出した

辞表を紹介します。



     

     『公文録』明治15年・官吏進退(太政官)に収められている
     服部為雪の辞表.



  私儀病気ニ付、療養仕度候間、本官

  被免候様仕度、此段奉願候、以上、

                   二等繕写生

    明治十五年十一月三十日  服部為雪

    内閣書記官御中


二等繕写という官は、以前の記事 でも紹介した

ように十七等相当の判任官で、「官吏」と呼ばれる

人々の中では最も低いものでした。


服部は、明治8年10月4日に太政官修史局

四級写字生に採用され、翌9年6月9日三級写字生

同11年12月14日二級写字生、同14年12月27日

一級写字生と昇進し、辞表を提出する二ヶ月前の

明治15年9月4日に二等繕写に任官し、ようやく「官吏」

と呼ばれる立場になったばかりでした。




     
     服部為雪の履歴書(同上所収)



上にお示しした辞表の中で、服部は辞職の理由を「病気」

と説明していますが、本当の理由は違っています。

この年の11月、服部は陸軍省から御用掛に採用したい

との打診を受けて承諾していたのです。


防衛省防衛研究所 に所蔵されている『陸軍省大日記』

明治15年 「大日記 11月 宣告辞令進退諸達伺 陸軍省

総務局」(レファレンスコード;C04030587300)に収められて

いる次の文書は、服部を採用するに当たって陸軍省から

修史館 に出された照会です。


  御館二等繕写服部為雪、当省御用掛ヘ

  採用致度、御差支無之候ハゝ、明十二月一日

  礼服着用、当省ヘ出頭候様、本人ヘ御達相

  成度、此段及御照会候也、

  明治十五年十一月三十日

          陸軍歩兵大佐児島益謙

       修史館御中



この照会に対する修史館 監事長松幹の回答が、同じく

『陸軍省大日記』「明治15年従7月至12月 太政官」に

収められています。ちなみに、この文書の画像を公開

している「アジア歴史史料センター 」のデータベース

では、服部為雪を「為当」と誤読していることは以前に

記したとおりです。



こうして服部は、辞表を提出した翌日の12月1日に

修史館 二等繕写を免じられ、陸軍省に転じました。



明治時代の官僚の辞表に記されている辞職の理由を

みると、圧倒的に多いのが病気を理由とするものですが、

その中には今回紹介した事例のように他の官庁に転じる

ための辞職や自ら商売を始めるための辞職である

ことが明らかなものもあります。



以上今回は、明治時代の官僚の辞表を通して、その

文面には現れない本当の辞任の理由を別の文書から

考えてみました。