松平乗承と日本赤十字社 | かんがくかんかく(漢学感覚)
2008-05-13 23:00:00

松平乗承と日本赤十字社

テーマ:読書、書評、修史事業、銘々伝

今回は、明治17年に太政官御用掛として修史館

勤務した松平乗承【のりつぐ】(1851-1929)について

紹介します。



乗承は、嘉永4年(1851)に三河国西尾藩主松平乗全

【のりやす】(1795-1870)の子に生まれました。


西尾藩の松平家は、大給松平家の嫡流として、幕府の

老中を出す家柄で、乗全も弘化2年(1845)に老中に

就任し、のちに十四代将軍をめぐる幕閣の対立では

紀州の徳川慶福を支持、また外交政策に関しては開国を

主張するなど、井伊直弼に近い立場をとっています。

万延元年(1860)に老中を辞し、文久2年(1862)に隠居して

家督を弟の松平乗秩【のりつね】(1839-1873)に譲りました。



乗承は、叔父乗秩の養子として家督を継ぎ、明治14年

(1881)に宮内省御用掛を命じられ、さらに同17年7月3日に

太政官御用掛に就任し、修史館 勤務を命じられています。



その辞令案には、次のように記されています。


     辞  令  案

       従五位 松 平 乗 承

  御用掛被 仰付候事、

    但取扱奏任ニ准ジ、月俸三拾五円下賜候事、


       太政官御用掛

             松 平 乗 承

  修史館勤務被 仰付候事、

    七月二日

  (国立公文書館所蔵『官吏進退』明治十七年・太政官、所収)



太政官御用掛を命じられた乗承は、翌8月に墓参のために

三河西尾に赴き、9月に帰京します。そして、本格的な

修史館 での勤務が始まりましたが、病がちであった

乗承はほどなく太政官・第二局に配置転換となりました。


     辞  令  案

       太政官御用掛

             松 平 乗 承

  修史館勤務被免候事、


       太政官御用掛

             松 平 乗 承

  第二局勤務被 仰付候事、

    十二月五日

  (同上所収)


こうして、松平乗承修史館 での勤務は、五ヶ月ほど

で終わりましたが、乗承の子息乗統は、のちに帝国大学の

国史学科を卒業し、短い間ですが史料編纂掛に勤務して

父と同様に修史事業に携わることとなります。


さて、明治17年末に第二局の勤務を命じられた乗承

でしたが、翌年の3月には麻疹にかかるなどしたこともあって、

間もなく非職を命じられました。


非職」というのは、今日の概念でいえば休職状態のことで、

地位はそのままで職務を免じ、3分の1程度を支給すること

を指し、この「非職」の期間内に次の職に就かない(就けない)

場合は、満期を迎えた段階で免官となりました。



「非職元太政官御用掛」となった乗承を迎えたのは、

日本赤十字社でした。「欧洲赤十字社ニ関スル事項取調」

を命じられ、さらにドイツで開催される第四回赤十字国際会議

派遣されることになったのです。


乗承が内閣総理大臣に提出した文書をみてみましょう。


        非職御免願

                         私儀、

  今般、欧洲赤十字社ニ関スル事項取調、且巴

  丁国ニ於テ赤十字万国会議有之節ハ、

  日本赤十字社委員トシテ列席ノ儀、該社

  総裁熾仁親王殿下ヨリ嘱託ヲ蒙リ候ニ付、

  不肖ヲ顧ミズ右委員ヲ領シ、私費ヲ以テ洋行

  仕度ニ付、甚以奉恐入候得共、非職元太政官

  御用掛御免被成下度、此段奉願候也、

                非職元太政官御用掛

     明治二十年五月廿一日 従五位子爵松平乗承(朱印)

  (国立公文書館所蔵『官吏進退』明治二十年・内閣、所収)


文中の「巴丁国」は、バーデン大公国の漢字表記で、

プロイセン王国を支持して連邦国家としての

ドイツ帝国を形成していました。

そのバーデン大公国領の都であったカールスルーエ

(Karlsruhe)で、第四回赤十字国際会議が開催される

こととなっていたのです。

このカールスルーエは、フランスとの国境に程近い所で、

最近ではサッカーのキーパー、オリバー・カーンの出身地

としても有名です。



こうして、日本赤十字社の社員となった松平乗承は、

やがて大正2年(1913)には同社の副社長に就任し、

同7年まで勤めるなど、日本赤十字社 の基礎を築く

人物の一人となったのです。


以上今回は、松平乗承が日本赤十字社 に関わる

前後の経緯を紹介しました。