奏任官の任官手続き―巌谷修修史館監事ニ被任ノ件―
おはようございます。
今回は、これまで にもこのブログで何度か登場した
「奏任官」という種類の官職に任官するまでの
手続きを紹介します。
その具体例として、明治15年5月に一六・巌谷修 が
修史館 の監事に任官した際の文書を素材に探って
みたいと思います。修史館 の「監事」というのは、
四等官相当の奏任官です。
「奏任」とは、天皇の詔勅により任命される「勅任」、
太政官が任命する「判任」に対し、太政官から天皇に
奏聞した上で任命される官職を意味します。
これらは、律令制下における官職の区分でしたが、
中世・近世を経て、明治以後の「勅任官」・「奏任官」・
「判任官」という区分に受け継がれました。
明治時代の太政官制下における「奏任官」の任命は、
各役所からの申請を受けて、内閣書記官が起案を
作成するところから始まります。
起案は、太政官の用箋を用いて記されます。
巌谷修を修史館 監事に任じた時の起案を、原本を
模して翻刻しておきましょう。
内閣書記官が作成した起案は、三大臣・参議のもとに
廻送され、それぞれ押印または花押を記して承認します。
この起案の場合、左側に押印または花押を記している
参議は、以下の人々です。
大木喬任・伊藤博文・西郷従道・山田顕義・大山巖・福岡孝弟・
山県有朋・井上 馨・松方正義・川村純義・佐々木高行
ただし、ヨーロッパと北海道にそれぞれ出張中で、東京に
いない伊藤博文・佐々木高行の二人は押印していません。
また、「大臣」の欄には、上から太政大臣・三条実美、
左大臣・有栖川宮熾仁の花押が据えられ、さらに
右大臣岩倉具視が朱印を押しています(印文「岩倉」)。
こうして、三大臣と参議の決裁を経ると、次に天皇に
奏上するための文書である「奏聞書」が作成されます。
この「奏聞書」も太政官の用箋(半葉8行)を用いて
記されます。
なお、文書が作成された段階で出張や旅行その他で
東京を離れていたり、または病気療養中などで太政官
に出仕していない参議・大臣の名は、「奏聞書」では
省略されています。
(この場合は、伊藤・佐々木両参議。)
(一行目・空白)
一等編修官兼修史館副監事巌谷修、修史館監事ニ
被任ノ事、
右謹テ奏ス、
明治十五年五月廿四日 太政大臣三条実美(朱印)
左 大 臣 熾仁親王(朱印)
右 大 臣 岩倉具視(朱印)
参 議大木喬任(朱印)
……………………………………………………………………
(以下、裏面)
参 議山県有朋(朱印)
参 議西郷従道(朱印)
参 議井上 馨(朱印)
参 議山田顕義(朱印)
参 議松方正義(朱印)
参 議大山 巖(朱印)
参 議川村純義(朱印)
参 議福岡孝弟(朱印)
「奏聞書」がされると、天皇は裁可した証として、「聞」の
一字が刻まれた朱印を「奏聞書」に押印し、これで
天皇の裁可を受けるという手続きが完了します。
「聞」の朱印が捺された「奏聞書」は太政官に戻され、
内閣書記官が「宣旨」という文書を作成して本人に
交付し、任官は完了します。
「宣旨」というのは、以下のような文書です。
一等編修官兼修史館副監事巌谷修
任修史館監事、
五月廿五日
以上今回は、巌谷修の修史館 監事任官の事例を通して、
「奏任官」の任命に関わる文書手続きを紹介しました。
(*)本日紹介した文書は、国立公文書館所蔵・公文録『官吏進退』
太政官(明治15年1月~12月)に所収されているものです。