先祖
武士化した藤原秀郷-1
京都の中央で公家として朝廷で力を伸ばせる藤原氏は
五摂家の様に、住居の地名で呼び習わされた。
地方に下った藤原氏は豪族となったが、
藤原の出自を示すためにその姓氏を残した。
職名や土地の名前を付けたにしても、「藤」の一字を残し、
「藤○」とか「○藤」としたことは既に述べた。
公家の藤原に対して、武家の藤原として最も著名なのは、
藤原秀郷である。
図1.藤原秀郷
![藤原秀郷.jpg](https://stat.ameba.jp/user_images/20140615/10/k1rms/03/de/j/t02200332_0468070612973547492.jpg?caw=800)
日昨、読者の一人からメッセージがあった。
読者:我が家の系図では:
秀郷 → 千時 → 時清(下野守) となっています。
時清は、光源氏様の家系図にも見当たりませんし、
ウィキペディアでも時清? となっていました。
光源氏:ウィキは中学生・高校生用の参考書程度ですよ。
(下野守)とは現在の職名で言うと、副知事位ですか。
千年も昔の副知事程度のお名前は簡単には見付らない。
僕は時清(土佐守)を2件中2件、見付けましたよ。
と言うことで、ご本人の了解を得て、本稿を書いた。
本当の武士時代は、源平以降だと確認しておく。
平清盛(1118~1181)、源頼朝(1147~1199)で12世紀。
藤原秀郷は(生没年不詳)だが、平将門を940年に朝命で、
平貞盛と共に田原籐太が討ったことから、10世紀の人だ。
武士は公家の朝廷の下働きに過ぎなかった時代だ。
田原籐太は三上山で巨大なムカデを討った伝説で有名。
俵(タワラ)とも呼ばれ、籐太は藤原から出た偉人との意味だ。
この偉人が、藤原秀郷である。
940年の手柄で武蔵・下野(現在の栃木県)の国司及び
鎮守府将軍に任ぜられた。籐太(=秀郷)の祖父・豊沢、
父・村雄は下野掾(ジョウ)であり、押領使(オウリョウシ)を兼ねた。
母は下野少尉・鹿島某の娘である。
即ち、早くからこの地方に土着していたことになる。
系図の中心線を書くと、
不比等→房前→魚名→→→→→→豊沢→村雄→
秀郷→千時→千清→正頼→→
どこまでも、中心線には時清(下野守)は出てこない。
しかし、太田亮・姓氏家系大辞典を覗くと、秀郷の兄弟だけでも、
7人の兄弟の名が○郷で表示され、千時の兄弟は千○の名が
5人もいる。この下に「時清」があるはずだが、見付らない。
1000年近く前の「下野守」では、普通では残らない。そこで、
世田谷区史年表稿「国司補任索引」提供ミシガン大学によると、
時○さんは何と、60人も居る。その中の一人は、
時清(藤原)天元4年(981)土佐守。永祚元年(989)土佐前司、
蔵人、となっている。下野守との違いは、人事異動は考えられる。
読者様が世田谷区か国会図書館などで調査して欲しい。
御先祖が書き残した資料が、現時点で検証出来ないからと、
簡単に捨て去ることは許されない実例だと思い、
無関係の読者様にもご紹介した。
(続く)