<久々の更新>長年の謎がやっと・・・。
お久しぶりです。カレー大魔王です。
このアカウントでブログの更新を行う事になろうとは・・・。封印した事もあり、大魔王もカレマンも出てきません。
僕の頭にあった長年の謎がありました。
それは、「自殺は何故してはいけないのか?」です。
僕の生きてきた34年の月日の中で「ソノコト」に携わる過去がありました。
その時僕はこう答えました。
「僕が死んで欲しくないから。」
「生きていればイイコトがきっとある。」
しかしその人の考えは決して揺るがず、時に「何故わからないんだろう?」と苛立ちを感じる事もありました。
この一ヶ月の生活の中で、とあるブログに出会いました。
「特殊清掃」を生業にしている方のブログです。
「ゴミ屋敷」「飛び下り自殺」「電車の人身事故」「孤独死などによる腐乱死体」など・・・。
その中にはもちろん「自殺」の後処理の事にも書かれていました。
その記事の中にその方の「自殺」に対しての考えも書かれていて、
「自殺はダメ」「生きなきゃダメ」この社会では、自殺は否定される。私も否定している。
やはり、肯定されていいものだとは思わない。
ただ、口で言うのは簡単。他人が言うのは極めて簡単。
人は、簡単に言えないことを簡単に言う。
悲しいかな、私は、その代表格なのかもしれない。
そう前置きがあり、僕の「自殺」に対しての考えに知恵をくれました。
“死にたいから自殺を図る”“生きていたくないから自殺を図る”
「生きているのがツラいから」「生きていくことに耐えられないから」。「絶対的に死にたいから」ではないのだ。
この類のことは、“生に対する健常者”には理解してもらえないものかもしれない。
「死ぬ気になれば、なんだってできる」と、“健常者”は思う。しかし、生きる気がないと何もできない。
人は、“生きるため”という積極目的があるからであって、“死なないため”という消極目的を達成するために何かをするわけではないから。
「生きていればいいことがある」と、“健常者”は考える。しかし、これは、漠然としすぎ。
似たようなことを訴えていながらも、諸手を挙げては賛成できない。
私は、“命が助かること”と、“人生が救われること”は別物であると考えており、少々の“いいこと”は救いにならないと考えているから。
ただ、“生還”した人のうちで、一体どれだけの人が幸福感を得られているのだろうと思うと、疑問を持たざるを得ないのだ。
と。
「何かイイコトがきっとある。」そう言って美味しい物を食べに行く。
しかし「死にたい」ではなく「生きたくない」と思っている人にとって、少しの気休めになったのだろうか?
美味しいものを食べることの「幸せ」などほんの一瞬でしかなくて、
例えるならゲーセンのコイン落としゲームで、コインを投入して数枚のコインが落ちてきたのと同じ程度なのではないのだろうか。
僕はその考え方に気づいてなかったんだなぁと、目からウロコ状態でした。
今でも「自殺」については否定派であるし、同じ質問に対しても上手く答えることは出来ないけど、今なら違うコトが言えるかもしれない。
そう思いました。
月日が経つのは早いもので、もうすぐ誕生日を迎える人がいます。
僕はその人に毎年忘れることなくプレゼントを用意しようと思います。
僕の寿命があと何年あるのかは分りませんが、その人の毎年のお楽しみになればいいなぁ。
そう思います。
一年、あっという間に過ぎ去っていくものなのか、長い時間なのか分りませんが、
「僕が生きていて欲しいから」から「新・僕が生きていて欲しいから」に考え方が変わった。
そんな34のおっさん、カレー大魔王久々のブログ更新でした。
では( ̄^ ̄)ゞ
このアカウントでブログの更新を行う事になろうとは・・・。封印した事もあり、大魔王もカレマンも出てきません。
僕の頭にあった長年の謎がありました。
それは、「自殺は何故してはいけないのか?」です。
僕の生きてきた34年の月日の中で「ソノコト」に携わる過去がありました。
その時僕はこう答えました。
「僕が死んで欲しくないから。」
「生きていればイイコトがきっとある。」
しかしその人の考えは決して揺るがず、時に「何故わからないんだろう?」と苛立ちを感じる事もありました。
この一ヶ月の生活の中で、とあるブログに出会いました。
「特殊清掃」を生業にしている方のブログです。
「ゴミ屋敷」「飛び下り自殺」「電車の人身事故」「孤独死などによる腐乱死体」など・・・。
その中にはもちろん「自殺」の後処理の事にも書かれていました。
その記事の中にその方の「自殺」に対しての考えも書かれていて、
「自殺はダメ」「生きなきゃダメ」この社会では、自殺は否定される。私も否定している。
やはり、肯定されていいものだとは思わない。
ただ、口で言うのは簡単。他人が言うのは極めて簡単。
人は、簡単に言えないことを簡単に言う。
悲しいかな、私は、その代表格なのかもしれない。
そう前置きがあり、僕の「自殺」に対しての考えに知恵をくれました。
“死にたいから自殺を図る”“生きていたくないから自殺を図る”
「生きているのがツラいから」「生きていくことに耐えられないから」。「絶対的に死にたいから」ではないのだ。
この類のことは、“生に対する健常者”には理解してもらえないものかもしれない。
「死ぬ気になれば、なんだってできる」と、“健常者”は思う。しかし、生きる気がないと何もできない。
人は、“生きるため”という積極目的があるからであって、“死なないため”という消極目的を達成するために何かをするわけではないから。
「生きていればいいことがある」と、“健常者”は考える。しかし、これは、漠然としすぎ。
似たようなことを訴えていながらも、諸手を挙げては賛成できない。
私は、“命が助かること”と、“人生が救われること”は別物であると考えており、少々の“いいこと”は救いにならないと考えているから。
ただ、“生還”した人のうちで、一体どれだけの人が幸福感を得られているのだろうと思うと、疑問を持たざるを得ないのだ。
と。
「何かイイコトがきっとある。」そう言って美味しい物を食べに行く。
しかし「死にたい」ではなく「生きたくない」と思っている人にとって、少しの気休めになったのだろうか?
美味しいものを食べることの「幸せ」などほんの一瞬でしかなくて、
例えるならゲーセンのコイン落としゲームで、コインを投入して数枚のコインが落ちてきたのと同じ程度なのではないのだろうか。
僕はその考え方に気づいてなかったんだなぁと、目からウロコ状態でした。
今でも「自殺」については否定派であるし、同じ質問に対しても上手く答えることは出来ないけど、今なら違うコトが言えるかもしれない。
そう思いました。
月日が経つのは早いもので、もうすぐ誕生日を迎える人がいます。
僕はその人に毎年忘れることなくプレゼントを用意しようと思います。
僕の寿命があと何年あるのかは分りませんが、その人の毎年のお楽しみになればいいなぁ。
そう思います。
一年、あっという間に過ぎ去っていくものなのか、長い時間なのか分りませんが、
「僕が生きていて欲しいから」から「新・僕が生きていて欲しいから」に考え方が変わった。
そんな34のおっさん、カレー大魔王久々のブログ更新でした。
では( ̄^ ̄)ゞ