袖ヶ浦市平岡公民館の庭先にひっそりとたたずむように記念碑が立っている。『平岡村を偲ぶ会~平成七年五月吉日』と刻まれている。
昭和20年、日本の戦況は悪化し、敗戦色が濃くなるなか、大学からは多くの学生たちが、学徒として戦場に出陣し、散っていった。
当時の東京大学経済学部の学生たちにも、学徒出陣の召集要請があった。しかし、日本政府の中枢部は、すでに未来の日本の復興を考慮していたのか、東京大学の優秀な学生たちを、旧平岡村へと農業勤労動員という形で、そっと疎開させていた。
国策により、平岡村の農家の家々では、東大の学生たちを寝泊まりさせ、農作業な従事させた。
終戦後、敗戦した日本の復興と高度経済成長の要となったのは、戦時中に平岡村に動員された東京大学経済学部の出身者たちであった。有名一部上場企業の社長はもとより、その多くの者たちが、後に、『財界の重鎮』と言われるようになった。
第一線を退き、初老の70歳を迎えた頃、終戦50周年の年を記念し、もう一度、自分たちの生きた証としての平岡村を訪れ、この地に石碑を建立したのである。当時、学生たちを受け入れた農家の一人で、袖ヶ浦市下泉に住む星野美一さん(平岡村を偲ぶ会受け入れ側代表・元木更津交通安全協会長・元木更津自動車学校理事長)が、歴史の語り部として、インタビューに応えてくれた。