ダンシングブレーヴは日本でも馴染みの深い名馬です。引退後日本に種牡馬として渡り活躍馬を出している。

エリモシック

キョウエイマーチ

キングヘイロー

テイエムオーシャンなどを輩出し成功した。

また母の父としてスイープトウショウやメイショウサムソンを出している

だがこの馬の現役時代どのような活躍と物語があったのか探って見ます。

そして、ダンシングブレーヴの最期迄をここに書き記します。


生い立ち


アメリカのグレンオーク牧場にから母ナヴァホプリンセスを預託していたケンタッキー州テイラーメイドファームにおいて誕生した。1983年5月11日ダンシングブレーヴは産まれる。仔馬の頃は目が小さく見映えが悪く大人しい馬だった。

イヤリングセールでサウジアラビアの王子であるハーリド・ビン・アブドゥッラーに20万ドルで落札されイギリスに渡る。

舞踏家から名をとられた父リファールと、インディアンのナヴァホ族の王女という名を持つ母にちなみ「踊るインディアン戦士」 (Dancing Brave) と名付けられた。しかしその名に反して非常におとなしい馬だったという。


競走馬時代

2歳時を未勝利戦、一般戦を連勝し2戦2勝で終え、ダンシングブレーヴは、明け3歳になると、クレーヴンステークス(英G3)で初重賞制覇を成し遂げ、次走、初GⅠレースの2000ギニーでは、2着のグリーンデザートに3馬身差をつけ勝った。





エプソムダービーでは血統などからスタミナ不足が懸念されたが、結局単勝1.5倍の圧倒的な1番人気に落ち着く。レースはスローな展開となりダンシングブレーヴは後方待機の作戦をとった。直線で大外に出すがバランスを崩してほぼ最後方となり、この後、豪脚が唸る。

残り2ハロンの時点で先頭のシャーラスタニとは12馬身ほどの差が開き絶望的な位置にいた。しかし、ここからダンシングブレーヴは強烈な追い込みを魅せる、なんとラスト2ハロン目が10秒3と突出した脚を魅せ、抜け出たシャーラスタニに迫った。だが僅かに届かず、1/2馬身差の2着に終わった。






ダービーで初めての敗北を喫したものの、負けて尚強しの走りを魅せたダンシングブレーヴの強さに誰も疑いようが無かった。

次走エクリプスステークスで“鉄の女”の異名で呼ばれた世界的強豪、トリプティクやベッドタイムに4馬身差以上をつけ完勝する。





次のキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスでは、1番人気こそエプソムダービーに続きアイリッシュダービーを大差で制したシャーラスタニに譲ったが、ハイペースのスタミナを消耗する展開にも関わらず、ゴール前も粘りきり、2着に3/4馬身の差をつけて優勝した。







秋初戦、凱旋門賞の叩き台となったセレクトステークス(英G3)では2着に10馬身差をつけレコードタイムで圧勝。



↑何故か音無しです?


本番の凱旋門賞では、ベーリング、シャーラスタニ、 シャーダリ、トリプティク、アカテナンゴ、ダララ、他にも東京優駿(日本ダービー)優勝馬シリウスシンボリ、チリのラスオークス優勝馬マリアフマタなど、出走15頭中11頭までがG1競走優勝馬という、1965年(優勝馬シーバードはベーリングの祖父)と並んで史上最強と称される豪華メンバーがロンシャンに集結した。






レースはスローで進み、ダンシングブレーヴはダービーと同じような位置取りで後方、前から12番手。
最後の直線入り口でもまだ同じ位置で、しかも前が壁になったので大外に振らざるを得なかったが、そこからまたしてもラスト1ハロン10秒8の脚で豪快に差し切り、2着に入ったベーリングに1 1/2馬身差をつけコースレコード(当時)で勝利を収めた。

この後アメリカに遠征しサンタアニタパーク競馬場で行われた第3回ブリーダーズカップ・ターフに出走するも、いつもの爆発的追い込みをまったく見せないままに、マニラから大きく離された4着に敗退。

(だがこの敗退には異論があった。芝コースは勿論だが途中ダートを横切るコース形態になっていた。ダンシングブレーヴは前の馬が弾いた砂が目に入ったのだ。これで闘志を無くし敗退したと言われる❗)

間もなく関係者が引退を表明した。しかし、この敗退によってダンシングブレーヴの評価が下がることはなかった。

並みいるメンバーが揃った凱旋門賞で劇的なレコード勝ちをしたために、高い評価が寄せられた。

1977年から始められたインターナショナル・クラシフィケーションで、ダンシングブレーヴは141ポンドを与えられた。

この値は、1978年に凱旋門賞を連覇したアレッジドや1981年にダービー史上最大の大差で勝ったシャーガーに与えられた140ポンドを上回って、史上最高値で、少なくとも1977年以降の世界のサラブレッドの中で最強であるということを示していた。

26年後の2012年に、過去のレートの見直しが行われ、1986年の各馬のレーティングは一律3ポンド引き下げられることになった。

この結果、歴代首位にたったのは2012年に140ポンドを与えられたフランケルで、138ポンドとなったダンシングブレーヴは2011年まで1位であったことは変わりがないが、歴代では2位となった。この見直しには賛否がある


種牡馬としての活躍


引退後はダルハムホールスタッドで日本円換算で総額約33億円の大型シンジケートが組まれて種牡馬入りしたが、1987年秋、不治の病で奇病とも言われるマリー病に蝕まれてしまう。

この年イギリスでマリー病に罹患したサラブレッドはわずかに5頭であったが、よりにもよってその内の1頭が本馬であった。

その後も種牡馬活動を続けていたものの、1988年生まれの初年度産駒がほとんど走らなかったことと、体調管理の難しさなどから1991年、ダルハムホールスタッドは早くも見切りをつけて売却を模索し始めた。

その金額は、シンジケート総額よりも遥かに格安のものであった。

「ダンシングブレーヴが購入可能」と打診を受けた日本中央競馬会 (JRA) は購入を検討し、マリー病ゆえにJRAでも馬産地でも賛否両論乱立する激しい議論になったものの、最終的に購買を決断し1991年に日本へ輸入、日本軽種馬協会へ寄贈される事となった。

ところが、その後、イギリスに残した産駒から、マリー病罹患後に種付けした世代にコマンダーインチーフやホワイトマズルなど活躍馬が続出し、欧州の関係者を「早すぎた日本への輸出」と嘆かせた。

またイギリスではスポーツ紙のみならず一般紙でさえ「早計な判断から起きた国家的な損失」と報じたという。これら産駒はいずれも日本に輸入され、中央競馬・地方競馬で活躍馬を出している

その後も体調が不安定で、治療薬の副作用にも苦しみ、その種牡馬生活はお世辞にも順調とは言い難いものであったが、空調を導入し馬房の温度管理を徹底したり、専属スタッフが傍らに常駐したりと、関係者の尽力もあって最晩年まで少ないながらも産駒を出し続けた。

1999年8月2日の早朝に体調が急変する。

その最期は、横になったらもはや立ち上がれないと悟っていたのか、病気の激痛に耐えて最期まで4本の脚で踏ん張り立ち続る。

そして、そのまま息を引き取るという、まるで武蔵坊弁慶のような見事な立往生であったという。

普通の馬なら立往生など考えられませんが、プライドなのか?精神力が強い馬だったのでしょうか?何とも壮烈な最期です。