ヤマニングローバルはミスターシービーの初の産駒として期待された大物であった
だが、骨折しクラシックが出られずピークを過ぎてしまうのです。
1989年9月、武豊を鞍上に阪神競馬場で初戦を迎える。デビュー前から評判となっており、当日は単勝オッズ1.3倍の1番人気に支持された。ここを2着に3馬身差を付けて優勝すると、次裕を見せながら2着に2馬身近い差を付けて優勝。重賞初勝利を挙げる
優勝タイム1分23秒1はレコードタイムから0.2秒差という好タイムだった。
しかし、入線後に武が馬を止めようとした際、ヤマニングローバルは馬場の窪みに足を取られ、バランスを崩した際に右前脚を骨折。その場で馬運車に収容された。検査の結果、右前種子骨が縦真二つに割れており、通常ならば安楽死の措置が取られる重傷であった。この骨折に武が「来年のGIを4つ(クラシック三冠、有馬記念)損した」と発言するなど期待も非常に大きかったことから、陣営は治療を選択。割れた骨を2本のボルトで繋ぐ手術が行われ、以降は復帰に向けて厩舎内での回復が図られた。
復帰後
1990年初頭には、左前脚に蹄葉炎を発症するなど一時状態は悪化したが、以降は徐々に良化に向かい、秋頃から調教を再開するまでに回復。年が明けた1991年1月に、オープン特別戦の洛陽ステークスで復帰を果たした。この緒戦で4着となると、以後は順調に月1走のペースで出走を続け、6月にはGIIIの阪急杯で2着、次走・GIIの高松宮杯でも3着となる。そして復帰後10戦目のアルゼンチン共和国杯で、デイリー杯以来およそ2年振りの勝利を挙げた。
次走の有馬記念で初のGI出走を果たし6着となると、1992年の初戦となった目黒記念で復帰後2勝目・重賞3勝目を挙げる。
しかし以降3戦は精彩を欠き、最下位13着と大敗した宝塚記念では再び骨折し、休養に出された。前哨戦を走らないまま天皇賞(秋)で復帰となったが、人気は18頭立ての15番人気と評価は非常に低かった。しかしレースでは、メジロパーマーとダイタクヘリオスが作ったハイペースを中団から追走すると、最後の直線で失速する先行馬をかわして一旦は先頭に立った。ゴール前50メートルで後方から追い込んだ レッツゴーターキン、ムービースターに差されたが、結果は3着と好走した。
しかし以降は再び大敗を繰り返し、1994年の阪神大賞典10着を最後に競走馬を引退。故郷のヤマニンベン牧場で種牡馬となった。産駒はヤマニンデュエルが3勝を挙げた程度で目立った成績は残せず、2005年に種牡馬も引退。2002年から繋養されている錦岡牧場・泊津繁殖牧場で余生を送っていたが2016年9月6日に亡くなる
もし、ヤマニングローバルが骨折していなければクラシックを賑わせた事に疑い無いでしょう
父親の様に三冠馬として活躍していたかも知れません、個人的には本当に残念でなりません、本来の走りが見たかったです。
ですが、ピークを過ぎても重賞にに勝っているのですからそれは、流石と言うべきでしょう❗
ご冥福をお祈りします。