第2部 英雄 ディープインパクト

ディープインパクトがシンボリルドルフ以来の無敗の三冠馬となりマスコミやファンの期待度が高まり取材攻勢が日に日に加熱していく

中にはディープインパクトの強さを探るべくディープインパクトの身体調査を取り上げた番組もあった。

私的ですが、お正月に親族や従姉に合い、競馬の話しの流れになった。

そこで私は
私「ディープインパクトって知ってる❗」っと訊くと

従姉「知ってる  あの、、隕石が落ちる奴でしょ🎵」

この一言で悟った感はありましたが、競馬の話しから何故そこって、苦笑いしかできなかった(笑)
親族は爆笑してたのが救いか



ディープの走る時の特徴

装蹄師の西内はディープインパクトの蹄鉄の減りがほかの馬に比べて遅いことを証言している。
実際、エアシャカールやアグネスワールドが2週間使用した蹄鉄とディープインパクトが3週間使用した蹄鉄を比較すると、ディープインパクトの蹄鉄のほうが減りが少なかった。
西内はその理由について、地面をがっちりと捕まえるディープインパクトの走り方を挙げている。
本来競走能力の高い馬は蹄鉄の減りが早いのだが、ディープインパクトの場合はそのような走法のために摩擦が少なく蹄鉄が減りにくいという。

NHKスペシャル「ディープインパクト~無敗の3冠馬はこうして生まれた~」によれば、ディープインパクトはその柔軟性から後ろ脚を平均的なサラブレッドより前、重心の真下に着く事が出来る。

よって、無駄無く強力な推進力を得られ、蹄鉄の減り・脚元への負担が少ないと結論付けている。更にこの事から、大飛びで有りながら滑る馬場や重馬場適性も高いと言った、一見、相反する要素を兼備えた類い稀な馬である。

心肺機能がほかの馬より優れているのも強さの一つと考えられている。まず、心拍数が最大になったときの血液のスピードを「VHRmax」(単位はm/s・メートル毎秒)、ゴール直後から心拍数が100を切るまでの時間を「HR100」といい、前者は持久力を、後者は回復力を示すものである(前者は数値が大きければ大きいほど、後者は数値が少なければ少ないほどよい)。3歳以上の馬のVHRmaxの平均は14.6であるのに対し、ディープインパクトはデビューの時点で16.3を示した。HR100も一般的な3歳馬は10分以上かかるが、皐月賞のときにディープインパクトが記録したのは2分42秒であった。

走り方も無駄がなく効率的なものとなっている。JRA競走馬総合研究所が菊花賞のディープインパクトの走りを調査したところによると、武豊の「走っていると言うより飛んでいる感じ」という言葉に反して、ディープインパクトは4本の脚がすべて地面についていない時(エアボーン)の時間がほかの馬の平均である0.134秒よりも短く、0.124秒だった。
しかし、その間の移動距離は長く、ほかの馬の平均が2.43メートルであるのに対し、ディープインパクトは2.63メートルだった。同研究所は、飛ぶことによって馬体の上下動に余計な力を使ってしまい、そのうえ前へ進む力も継ぎ足せなくなるため、エアボーンの時間が短いことは速く走るためのメリットだと説明している。また、2本の脚が同時に地面に着いている時間が少ないことも明らかになった。

この脚と脚が同時に着いている時間が短いという特徴はアメリカの三冠馬セクレタリアトにも見られることから、速く走る馬の特徴なのではないかと同研究所の高橋敏之は推測した。

さらに同研究所は、走るときに後肢を大きく前方へ振り出していること(それによって後肢を後方に引き戻す速度が上がり、着地するときの制御力も小さくなる)などをディープインパクトの効率的な走りの特徴として挙げている。
同研究所は、ディープインパクトの走りには「強いウマ、速いウマの走りのテクニックが凝縮されて」おり、「空を飛んでいる」と武豊が言ったのは、ディープインパクトが馬体の上下動を抑えて重心を低くしたスムーズな走行をしているからだと研究結果をまとめている。


菊花賞後、陣営はディープインパクトを年内にあと1レース出走させる方針を示したうえで、ジャパンカップと有馬記念のどちらに出走するかを検討し、最終的に有馬記念に出走させることを決定した。この後、国内で最初で最後の敗けを経験することになる。

事前のファン投票では160,297票を集めて1位となった。レース当日の中山競馬場には前年比129.6パーセントとなる16万2409人もの大観衆が押し寄せた。古馬とは初対決となったものの、単勝式オッズは1.3倍を記録した。しかしレースでは、いつものように後方から進めるも、ハーツクライに半馬身及ばず2着に惜敗し、8戦目にして初黒星を喫した。



レース前に大騒ぎしてたファン達は、ハーツクライが勝った後、場内は静まり返る。ディープインパクトの強烈な走りに期待したファンは沈黙してしまったのだ。

レース後、鞍上の武豊は「今日は飛ぶような走りではなかった。普通に走ってしまった」と初めての敗戦にショックを隠し切れないコメントを残している

2005年(平成17年)の活躍をうけ、この年のJRA賞では年度代表馬および最優秀3歳牡馬に選出された。
JRA賞選考委員会の記者投票では最優秀3歳牡馬では満票(291票)を、年度代表馬では285票を獲得した。関西競馬記者クラブ賞も受賞


4歳(2006年)

1月23日に行われた前年のJRA賞授賞式において、オーナーの金子が「夏にヨーロッパでいいレースがあれば使いたい」と発言し、海外遠征を行う意向が示された。

海外遠征については2月、調教師の池江によって、春は阪神大賞典から天皇賞(春)へ向かい、天皇賞(春)の後にイギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスとフランスの凱旋門賞のどちらに出走するか決定すると発表された。

2006年(平成18年)の初戦となった阪神大賞典は初めて経験する稍重馬場だったが、レースでは3コーナーで進出を開始して4コーナーで先頭に並ぶと、最後の直線でデルタブルースやトウカイトリックを寄せ付けず、決勝線手前では武豊が抑える余裕を見せ3馬身半の差で優勝。順調なスタートを切った。


阪神大賞典楽勝
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2006年4月30日、京都競馬場にて、天皇賞(春)

4月30日、続く第133回天皇賞(春)。単勝支持率は当競走史上最高となる75.3パーセント(オッズは1.1倍)を記録した。スタートではまたも出遅れ、道中は最後方から2番手の位置で折り合いをつけて進んだ。そして3コーナー手前の残り1000メートル地点からロングスパートを開始して先行馬を交わしていくと、ゆっくり下ることがセオリーとされる下り坂でもスパートを続け、4コーナーで早くも先頭に立った。
直線では、出走馬中最速となる上がり3ハロン33秒5の脚を使ってそのまま先頭を維持し、2着のリンカーンに3馬身半の差をつけ優勝した。
勝ち時計の3分13秒4は芝3200mの世界レコードタイムで、1997年(平成9年)の第115回天皇賞においてマヤノトップガンが記録した3分14秒4のレースレコードを1秒更新した(このタイムも当時の世界レコードであった)。2着に入ったリンカーン(3着に5馬身差をつけ、かつ自らも従来のレコードタイムを上回る走破時計を出す)に騎乗した横山典弘が「(リンカーンは、生まれた)時代が悪かった。しょうがない」と言うほどの内容だった。

武豊は「世界にこれ以上強い馬がいるのかな」と言い、海外遠征での勝利に期待感を示した。レース後の記念撮影で武豊は指を4本立てて四冠をアピールした。



ミスターシービーの菊花賞を真似た貫禄勝ち
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天皇賞(春)の勝利により、5月7日に発表された世界統一ランキング上で、芝・超長距離部門の世界ランク1位となった。翌5月8日、調教師の池江が凱旋門賞出走に向けた海外遠征プランを発表、その前哨戦として6月25日に京都競馬場で開催される第47回宝塚記念に出走することとなった。事前に行われたファン投票では89,864票を集め1位となり、単勝支持率も天皇賞(春)に続きレース史上最高の75.2パーセント(オッズは1.1倍)をマークした。当日の京都競馬場は雨で馬場が悪くなっていたが、道中後方2番手追走から残り700メートル地点で進出を開始すると、直線では馬場外目を伸び、2着のナリタセンチュリーに4馬身差を付け優勝した。






海外を見据えた 豪脚唸る❗
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そして同競走を優勝したことで史上7頭目、史上最速での(収得賞金額)10億円馬となった。レース後の記念撮影で武豊は指を5本立てて五冠をアピールした。宝塚記念優勝を受けて、7月10日付の世界ランキングでは芝長距離部門で世界1位となった。これは日本調教馬としては史上初のことである。

凱旋門賞の行われるフランスに出発する前に、2006年(平成18年)7月2日にマイクロチップが埋め込まれた。
これはフランスでは2006年からすべての出走馬にマイクロチップを埋め込むことが義務付けられているからである。
日本では2007年(平成19年)に産まれてくる産駒から個体識別のためにマイクロチップを埋め込むことが義務付けられたが(2006年(平成18年)に産まれた産駒や現役馬は順次導入)、ディープインパクトはこれに先立ち日本産馬としてはマイクロチップの埋め込み導入第1号となった。

ディープインパクトは8月2日から美浦トレーニングセンターに滞在して検疫を受けた。
そして8月9日、凱旋門賞出走のために帯同馬のピカレスクコートとともに出国し、現地時間9日午後2時56分にフランスに到着した。
その後はシャンティー競馬場の隣の調教場にあるカルロス・ラフォンパリアス厩舎に滞在し、おもにそこで調整された。9月13日には凱旋門賞が開催されるロンシャン競馬場でも調教が行われた。

10月1日の凱旋門賞は、前年の同競走の優勝馬ハリケーンラン、前年のブリーダーズカップ・ターフの優勝馬シロッコ、そしてディープインパクトの古馬3頭が「三強」を形成した。
直前の各ブックメーカーのオッズではこの3頭が上位人気を占め、中にはディープインパクトを単独で1番人気に推すところもあった。この3頭と対戦するのを他陣営が嫌ったためか、レースは8頭という史上2番目の少頭数で行われることになった。それまで欧州調教馬以外勝ったことのない凱旋門賞だが、現地のメディアやファンからは「今回はディープインパクトに勝たれても仕方ない」という諦めムードさえ見られた。

ロンシャン競馬場内では、日本人がディープインパクトの単勝馬券を多数購入したため、一時は1.1倍という断然の1番人気となった(最終的なオッズは1.5倍)


ここで凱旋門賞について説明します。今まで数々の日本馬がこの凱旋門賞に挑戦し悉く敗れまだ、1勝もしていません。

ヨーロッパには3大競争レースがありそれが日本では欧州三冠と言われ、

英ダービー

キングジョージ

凱旋門賞

があり、これを制したのはミルリーフとラムタラだけです。

フランスでは、19世紀半ばに3歳馬のための国際的なクラシック競走としてパリ大賞が創設され、国外からも一流馬を集めて成功していた。これにならって古馬のための大競走が企画され、第一次世界大戦終戦直後の1920年に創設された。これが凱旋門賞です。

しかし初めの30年間は国外(特に競馬先進国のイギリス)からの一流馬の参戦はなく創設の目的を果たせなかった。1949年に大幅な賞金増によって世界一の高額賞金競走となると徐々に注目を集めるようになり、1965年には世界中から集まった一流馬を相手に圧勝したシーバードが世界史上最強馬と認定されるに及んだ。

その後もミルリーフと言った名競走馬が一流馬を相手に勝つことで、凱旋門賞の国際的な名声はますます高まった。
1986年にはイギリス、フランス、西ドイツ、アイルランドや日本、南米からもクラシックホースが集まり、これらを相手にレコード勝ちしたダンシングブレーヴは世界最高の名馬となった。

凱旋門賞の成功にあやかって、世界各地に国際的な大競走が創設された。これらの多くは極めて高い賞金を出して凱旋門賞の上位馬を呼び寄せることで権威を高めようとした。1990年代には、いくつかの競走は凱旋門賞を超える賞金を出すようになった。
一方、凱旋門賞は世界最高賞金の座を奪還するためにスポンサーと契約し更なる賞金の積み増しを行なっている。(日本もスポンサーを入れて、BCクラシックスタイルや凱旋門賞の様にレベルアップしてほしいですね🎵個人的意見ですが(笑))



ロンシャン競馬場は、右回りの芝コース。大外回り1周2750メートル、中回り1周2500メートル、小回り1周2150メートル、第3コーナーのポケットからのコースは1400メートル、直線コースは1000メートルと5つのコースがある。

向こう正面のコースは中間から第3コーナーまでゆったりとした上り坂が続き、そこからゆったりとした下り坂が続く。大外回りコースは最大10メートルの高低差となっている。

中回りコース、大回りコースのみ第4コーナーまではフォルスストレート(false straight、「偽りの直線」の意味)と呼ばれる最大650メートルの擬似直線が続く。

直線はゴール板は2つ有り手前のゴール板までは533メートル、奥手のゴール板までは650メートルの平坦なコース。

直線コースはゴールまで平坦なコースが続く。


凱旋門賞ではディープインパクトは好スタートを切り、今までの控える競馬とは違い道中2 - 3番手でレースを進めると、残り300メートル地点でいったん先頭に立ったものの突き放すことはできず、残り100メートル地点でレイルリンクに、さらにゴール直前でプライドにも交わされて3位入線に終わった。


敗因として武豊は「直線を向いてからハミを取らなかった。ギアが一段上がらなかった」と語っている。そのほか競馬関係者もこの敗戦を分析し、元騎手の岡部幸雄と柴田政人は斤量とヨーロッパ特有の重い馬場を敗因として挙げ、さらに岡部は現地のレースを1回経験させておいたほうが良かったとの見解も示している。
また、ライターの江面弘也はフランスのアンドレ・ファーブル厩舎の3頭に囲まれながらレースを進めざるを得なかったことを指摘し、ディープインパクトは「『なにをしてでも勝たなければいけないフランス』に負けた」としている

だが、ディープインパクトや関係者らに負けただけでなく更なる追い討ちが待っていた。

2006年10月19日に、レース後の理化学検査で「ディープインパクトの体内から禁止薬物イプラトロピウムが検出された」とフランスの競馬統括機関であるフランスギャロが発表した。

この発表を受けて、日本中央競馬会(JRA)の高橋政行理事長は「栄誉ある凱旋門賞に汚点を残す結果となり、誠に残念でなりません」という趣旨の内容の発言をした。この発言はJRAのサイト内にある2006年10月19日のJRAニュースに、平成18年10月19日付けの発表として掲載されている。

JRAとしては、久々のスターホース候補が出現したということで、同馬のPR活動にはかなり力を入れており、日本ダービー当日にはレース前にもかかわらず同馬の銅像を展示したり、凱旋門賞の前にはJRAが主催するレースでないにもかかわらず、「凱旋門に衝撃が走る」「世界のディープを見逃すな」というキャッチコピーを使った同馬のCMも頻繁に流していたという経緯もあったのだが、そのディープインパクト自身から禁止薬物が検出されて、日本中が注目したレースで失格になると言う皮肉な結末となってしまった。

事件が発覚した際、同馬の調教師である池江泰郎がフランスギャロに提出した弁明書は「ディープインパクトは9月13日からせき込むようになり、21~25日にフランス人獣医師の処方によりイプラトロピウムによる吸入治療を行った。その間2度、吸入中にディープインパクトが暴れ、外れたマスクから薬剤が飛散し馬房内の敷料(寝ワラなど)、干し草に付着。それをレース前日から当日の間に同馬が摂取し、レース後まで残留した可能性が高い」という内容だった。

その後、フランスギャロは11月16日に同馬に失格の裁定を下した。なお、凱旋門賞で禁止薬物による失格馬はディープインパクトが初めてであった。同馬を管理する池江には15,000ユーロ(日本円換算約227万円)の制裁金を科した。また同年11月29日にJRAは同馬に同行した日本人開業獣医師に対し、JRA診療施設の貸し付けを同年12月4日から翌2007年6月3日まで6カ月間停止する処分を行った。

ディープインパクトは10月4日にフランスから日本に帰国し、競馬学校で検疫が行われた。その後、調教師の池江によって10月29日の天皇賞(秋)が復帰初戦の予定とされたため、規定により同競走が開催される東京競馬場で着地検査が行われた。

10月11日には2006年(平成18年)限りで現役を引退することが発表され、51億円(8500万円×60株)のシンジケートが組まれ種牡馬となることが決定した。この額は日本で繋養された種牡馬としては史上最高価格である。

天皇賞(秋)は、帰国して日が浅い中で出走させるのは馬がかわいそうだということで回避が決定され、日本国内での復帰初戦は第26回ジャパンカップにずれ込むこととなった。迎えた11月26日のジャパンカップでは2005年の有馬記念以来のハーツクライとの再戦となった。
同競走は海外からは当年のカルティエ賞年度代表馬ウィジャボードを含む2頭しか出走せず、日本馬を合わせても11頭しかいないという、ジャパンカップとしては少数立てのレースとなった。ディープインパクトの単勝支持率は61.2パーセント(オッズは1.3倍)で、日本国内で走ったレースの中ではもっとも低かったが、これでもジャパンカップ史上最高の支持率だった。

レースはスローペースとなったが、ディープインパクトは終始最後方で待機し道中を進めた。そして直線に向くと内に入った他馬を大外から一気に捲くり、ドリームパスポートに2馬身差をつけ優勝した。




ジャパンカップ快勝
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レース後は武豊がウイニングランを行い、ファンに健在ぶりをアピールした。そして表彰式に出るときに武豊はファンといっしょになって万歳三唱をした。記念撮影では武豊の5本指にオーナーの金子の1本指が加わって六冠を表す6本指ができた。一方、再戦ムードを盛り上げたハーツクライは、レース前から陣営が明らかにしていた喘鳴症(喉鳴り)が進行しており、見せ場なく10着に敗れた。

そして12月24日、引退レースとなる有馬記念に出走した。事前に行われたファン投票では119,940票を集め2年連続1位、かつファン投票で選ぶレースとしては3レース連続で(2005年有馬記念・2006年宝塚記念・2006年有馬記念)1位となった。単勝支持率は70.1パーセント(オッズ1.2倍)で、1957年(昭和32年)にハクチカラが記録した76.1パーセントに次ぐ史上2位となった。レースでは道中後方3番手につけ、3コーナーから追い出して直線で早々と先頭に立つと、最後は流しながらも2着ポップロックに3馬身の差をつける圧勝で、有終の美を飾った。武豊が「生涯最高のレースができた」「今までにないくらい、強烈な『飛び』だった」と言うほどのレース内容だった。





ディープインパクト最後の衝撃
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また、このレースでシンボリルドルフやテイエムオペラオーに並ぶ史上3頭目の中央競馬GI7勝の最多タイ記録を達成し、獲得賞金ランキングでもテイエムオペラオーに次ぐ単独2位にランクインした。
この後ウイニングランは行われなかったが、その理由について武豊は、ゴールを過ぎてから走るのを嫌がったためだと語っている。記念撮影では武豊の5本指にオーナーの金子の2本指が加わって七冠を表す7本指ができた

そして有馬記念当日の全競走が終了したあとに引退式が行われた。約5万人のファンが見守る中、厩務員の市川と調教助手の池江に曳かれながら、武豊を背に同日の有馬記念のゼッケンを付けて登場し、ファンに最後の勇姿を披露した。

世界ランキングでは、夏から秋にかけては一時的に順位を落としたものの、ジャパンカップと有馬記念の優勝によって、最終的な2006年通年の世界ランキング1位となった。JRA賞でも年度代表馬および最優秀4歳以上牡馬に選出された。年度代表馬は2年連続の受賞だった。JRA賞選考委員会の記者投票では総得票数289票のうち年度代表馬で287票、最優秀4歳以上牡馬で288票を獲得した。前年に続き関西競馬記者クラブ賞も受賞した。

こうしてディープインパクトは引退し種牡馬として活躍する事になるのです

第3部に続く