1月20日に亡くなった母の四十九日法要で、山梨県笛吹市に向かっています。

2年前に背骨等の手術を受けた際に、MRSAという質の悪いウイルスが体内に入ってしまいました。

このウイルスには抗生物質が効かないので、全身麻酔をして術部を開き生理食塩水で洗浄するしか手がありません。

洗浄後は、全身麻酔の影響で目は開くものの、意識はぼんやりとしていてしばらくは口を開きません。
徐々にポツリポツリと話を始めるものの、記憶や認識が曖昧になっており、はっきりとするまでには2週間ほど時間がかかりました。

はっきりしてきた頃に、また発熱し、CTで見るとMRSAがまた増殖してるとのことでした。

そしてまた全身麻酔をして洗浄…

これを繰り返すうちに、とうとう記憶等がハッキリしなくなりました。

次にウイルスが増殖したらもう洗浄はできませんというところでウイルスは増殖しなくなりました。

1年以上ベッドから下りていない母は、すっかり痩せて、歩くことはもちろんのこと、自分で体を起こすこともできなくなっていました。

その間に父がなくなりました。
幸いにも頭がハッキリしていないのでそのことはよく分かっていませんでした。

夢の中で生きていた母はおそらく人生の中で一番充実していた時期をさまよっていたのだと思います。

息子たちが中学生・高校生ぐらいのころなのでしょうか。

週に一度見舞いに行くと、
「塾に行かなくていいのか。」などと言っていました。
父のことはもちろん、僕が大学生の時に亡くなった祖父もまだ生きているようでしたが、そのくせ祖父の法事に行くと言い出したり、孫のことを話したりしました。

存在しない女の子の孫の話をしだしたりして、息子も孫も全て男であった母にとっては女の子が欲しかったのかなと思いました。

寝たきりの状態でしたからどうしても体は弱っていき、それでもまだ年齢が若く体力があるので持ちこたえている状態が続きました。

亡くなった時も、当日の朝まで普通に食事をしていたぐらいで、肺炎のために亡くなったわけですが、苦しむことなく逝くことができたのでよかったのではないかと思います。

そもそも、手術を受けなければ腰が痛いといいながらも今も元気にいたはずです。

父がパーキンソン病と診断され、息子たちはそれぞれ家庭をもって外に出ていましたので、自分が父の介護をするにあたってはしっかりと歩けなくてはいけないと、手術を決意したのだと思います。

「お父さんがいなくなれば、せいせいするわ。一人でのんびり生きていく。」と口ではよく言っていた母でしたが、長年連れ添った夫婦には息子にもわからない結び付きがあったのだと思います。

自分がこれまで生きてくる上では、やはり母の影響や存在は大きく、1月20日以来毎日線香をあげ、花の水を変えていても、何やら現実として受けとめられないところがありました。

今日、父が眠る山梨の墓に入っても実感はわかないのかもしれませんが、一つの区切りになるのかなぁと思います。

そんな母の一番の格言だと思うのは、
「体にいいことは楽しくなくて、体によくないことは楽しい。体にいいものは美味しくなくて、体によくないものは、美味しい。」
です。

なるほどですな( ̄◇ ̄;)