今朝起きたら母から連絡があり、亡くなったとのこと。

 

緊急搬送されたわけじゃないから、きっと安らかに逝ったんだろうねとのこと。

 

・・・あと3週間待ってくれたら駆けつけられたのにな。

 

さすがに1万キロ離れたオランダからじゃ無理だ。

 

 

タイトルにある通り、亡くなったのは私の祖母ではない。

 

祖母からみておばさんに当たる人が亡くなったのだ。

 

私からみたら、この人は一体どういう呼び方をすればいいのか検討もつかないぐらい遠いが、まだ元気だったころは年に1回ぐらい、色んなところに一緒にお出かけしたりしたものだ。

 

大阪の堺市に住んでいたので、私たち姉妹は「堺のおばちゃん」と親しみを込めて呼んでいた。

 

いつも元気で明るかった堺のおばちゃん。

 

100歳を越えた時、堺市のご長寿に贈られる賞かなんかもらってたっけ。

 

市の職員が自宅を訪問した時、まさか100歳の本人が腰も曲がらず元気な姿で玄関先に登場してくるなんて思いもしなかったから、この職員をびっくり仰天させてしまったというエピソードがある。

 

というか、100歳まで一人で暮らしせていた時点でおかしいのだが。

 

 

そんな堺のおばちゃんには欠かさず行なっている日課があった。

柔軟体操と音楽に合わせて指先を折ったり曲げたり左右バラバラに動かす指運動だ。

 

おばちゃんの体は小さな子供に負けないぐらい本当に柔らかかったし、それのせいかどうかはわからないかボケることもなく、受け答えもハキハキとしていた。

 

大正琴も弾けたし、若い頃はお茶の先生もやっていたっけ。

 

そしてとにかくよく食べた。

140cmほどの小さく細い体の一体どこにフレンチのフルコースをたいらげる余裕があったのか。

 

国民のほとんどが農村部でまだ百姓をしていた時代に、大都会・大阪の中心で生まれ育ったおばちゃんは若い頃から百貨店でのショッピングが大好きで舌もグルメだっただろうし、あの当時にしてはかなりハイカラな人だったと思う。

 

 

そして何より、おばちゃんが大切に思い続けていたことが一つある。

 

それは、自分自身がとても幸せな人間だと感じていたということだ。

 

夫こそ20年以上も前に亡くしているが、姪だけではなく、孫や孫の子にもこうやって会いに来てもらえて私は本当に幸せだ〜健康に生きれて感謝感謝!といつも老人ホームで笑顔だった。

 

確かに、私らがみんなで会いにいくと、おばちゃんは本当に幸せそうだった。

 

そんなおばちゃんに会うたびに、逆に私が元気をもらって帰ったぐらいだ。

 

私も頑張らなくちゃ、そう思わせてくれるひまわりみたいな人だった。

 

 

大正3年の元旦生まれという、スタートからめでたかったおばちゃんは、昭和の大戦を経験し、劇的に変わる平成の世を見つめながら令和元年7月6日、大往生の末ついに天国へと旅立った。

 

 

 

老人ホームの方々、おばちゃんを大事にしてくれてありがとう。

 

そして堺のおばちゃん、いい思い出をたくさん、たくさん

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ありがとう。