カエルと哲学と私 -2ページ目

カエルと哲学と私

カエルが好きなのと
考えるのが好きなのです。

こんばんは

イライラすることがあると

めっちゃいらいらしますよね。

アンガーマネジメントで6秒我慢すれば

ピークは過ぎるとかいうけど

私には当てはまらないようです(笑)

 

 

自分にこだわらない

 

こだわらない第二弾

 

こだわり

昔と比べて何が変わったかというと

ここだなーと思います。

学生時代は何者でもない自分がフツーだったのですが

社会人になることをきっかけに

皆、何者かになることを強制される。

 

自分もその中の一人でした。

元々、白黒はっきりつけたいタイプで

完璧主義ではないのですが

やるときとやらない時の差が激しい人間でした。

やるときは徹底してやる

やらない時は徹底してやらない

 

そんな性格特性もあってか

社会人になってからは仕事にのめりこみ

職業上のペルソナに縛られてしまったのです。

 

年々、動きにくくなる自分

あれ、こんなことでイラつく人だっけ自分?

あれ、こんな余裕なかったっけ?とか

 

全ては自分に対するこだわりが生み出した執着、鎧だったのかなとも思います。

信念はいいものだと解釈されていますが

私にとって信念は動きにくい甲冑のようなものでした。

 

果たして我々は何者かになる必要があるのでしょうか?

また、何者かになれるのでしょうか?

 

しかしアイデンティティというやつの作用で

皆、肩書を欲しがる世の中です。

確かに肩書があるとかっこいい。

スーパーメディアクリエイターとか

エクスペリエンスゼネラルマネージャーとか

 

なんなんだそれと思う名ばかり出てきますが

みな、何かになりたいのだと思います。

 

私だけかわかりませんが

そんな肩書のない自分にずいぶんと葛藤しました。

 

 

ただ、社会人になって役職も頂き自分の役割みたいなものを意識してきたのですが

どうにも苦しいというのが正直なところです。

私みたいに0か100かの人間はモードの切り替えが苦手で

仕事のペルソナの状態でプライベートモードも過ごしてしまう

 

その結果、自分はこうあるべきというこだわりが生まれ

そのこだわりに反する行動との間に葛藤が生まれる。

 

本来人とは一面性ではなく何面もの顔を持っているのがあたりまえで

他者にとっては一面しか見えていなくても

自分にとって自分らしいというのは環境や状況によってことなるのではないか。

 

そんなこんなで苦しくなった私は

自分に対するこだわりをぽいっと投げてみることにしました。

 

完全になくすことはできないので意識しつつの実行ですが

すごく楽になった今日この頃です。

 

自分にこだわるというのは

自分はこういう性格だからこれを好むとか、自分は趣味がこれだからこれをやるとか、自分の好きな色はこれだからとか

今までの経験則から自分を縛る行為です。

 

確かにずっと好きなものもあるけど

好きな色、好きな食べ物、好きな歌

その時々で変化するのが普通です。

それは自分はこういうものが好きな傾向があるからとこだわらない

決めないこと

 

グレーゾーンを設ける

中庸を意識すること

 

こう考えると自分のすべての面は自分の全てなんだなと受け入れることが出来ました。

自分にこだわらないとは自分を無下にすることではありません。

自分を解放する行為だと思います。