第二十一番 菩提山 穴太寺

 京都、亀岡なあるお寺。丹波地方で指折りの古刹である。こちらのお寺は、八世紀初めに文武天皇の勅願により大伴古麻呂(おおとものこまろ)が開いた。

雰囲気のある仁王門から入ると正面に本堂(京都文化財)がある。格天井には狩野派の絵師が描いた動植物の絵で飾られている。

本堂中央には寺の本尊の薬師如来、左に「身代わり観音」と呼ばれる札所本尊の聖観音が祀られている。また、右には、自分の身体の悪い部分をなでるとご利益があるという「なで仏」と呼ばれる釈迦浧槃像を安置している。お釈迦様に掛けられているお布団は、当時からずっとかけられているといわれ、是非お布団をとって悪い部分をなでてお詣りしてくださいと案内された。

本坊の書院から、多宝塔を借景にした景色も素晴らしかった。江戸中期から末期にかけての手法をよく表現した名園のひとつで、池泉築山敷庭園で丹波地方隋一と言われている。秋の紅葉の季節が特に美しいといわれているので、是非日を改めて拝観したいと思う。

 

厨子王丸肌守御本尊
安寿と厨子王丸の悲話の伝説に語られる厨子王丸肌守御本尊をおまつりしています。 2人が山椒太夫に捕らえられ、過酷な責めを受けた時、その苦しみを代わりに受けてくださった仏様といわれています。 安寿が厨子王丸を逃がし都へ上る途中、厨子王丸をかくまった寺の一つが穴太寺だったといわれ、のちに、厨子王丸はこの肌守御本尊を穴太寺に奉納し供養したと伝えられています。

【伝説】平安時代、丹波国郡司の宇治宮成は、聖観音を彫った仏師に礼として馬を与えたが、惜しくなり、仏師に矢を放って奪い返した。帰宅すると、聖観音に矢が刺さって血が流れており、仏師の無事も確認された。「観音様が身代わりになられた」と悟った宮成は、愚行を恥じて仏門に入り、穴太寺に聖観音を祀った。身代わり地蔵の由来である。

 

慶雲二年(七〇五)の文武天皇の御世に大伴古磨によって創立されたと伝えられる丹波でも屈指の古刹です。 庭園は多宝塔の東部を借景にしており、江戸中期から末期にかけての手法をよく表現した名園のひとつです。夕陽の沈む西庭の景観もまたすばらしいものです。

 

※巡礼後に、自身の再訪した際の注意事項として歴史などを調べて書いています。皆様の参考になれば幸いです。