優しくなりたいなと思う。
私が思う優しさは時間だ。
人に優しくなれないとき、
たいていは速さ(早さ)を求めるときだ。
それは
何かをタイミングよくやってほしい、
みたいな
直接時間に関係することもあるけれど
それよりは
もっと間接的に時間がかかわることが
多いように思う。
例えば、
「この人のこういうところがな」
と思うとき
時間には関係のない話題のように
見えるけれど
それでもやっぱり
時間に関係あると私は思っていて
それは
「変化には時間がかかる」
という面があると思っているからです。
「この人のこういうところがな」
というとき
人はそれを不変のものとして
見なしています。
変化の可能性を期待していない。
固定の何かのように扱っている。
だけど、
人は変わることができるよね。
変わりたいと願う限り
その可能性はなくならない。
私はそう思いたい。
誰かが変わろうとするとき
それに冷や水をかけるのではなく
なんとか変われるよう
手伝える自分でありたいなと思う。
とはいえ
キレイごとばかりではない。
人は変わることができるけれど
それには時間が必要です。
変化を待つというのは
時にイライラするものです。
私も変えたいと思いながら
なかなか変わらないことがありますが
自分には
「しょうがない」と言えても
他人には
なかなかその寛大さを発揮できない。
自分に甘く
人に厳しいのだ。
それでもやっぱり
変化を待てる優しさを身に着けたい。
なかなか変化しないからといって
変われない証明にはならないし
変わらないという結果が出たわけでもない。
まだまだ変化の途中なのだ。
そういうチャンスを
自分に与え続けるのと同じように
他の誰かにも
可能性を信じ続けられる状態にありたい。
変化を待つ、とは
可能性を信じる、とも同義だ。
「あの人はああいう人だから」
「あの人っていつもああだよね」
「ああいうところがあの人はね」
と言い切ってしまうと
そこで終わってしまう。
そこは本人も気づいていて
なんとかしたいと
思っているかもしれない。
いや、いまはそう思えていなくても
いつか思うかもしれない。
もしくは、
「変わるべき」
の前提が変わるかもしれない。
自分の側がいつの間にか
そんな相手のそんなところまで
好きになるかもしれない。
まだ答えは出ていないのだ。
結論を出さずに
猶予を持たせること。
物事に余白をもたせること。
それが可能性を引き出し
思いがけない何かを生み出すかもしれない。
答えを出すことだけが善ではなく
答えを出さずに様子を見ること、
これが善になることもある。
特に対人間のような
複雑系のものには有効なんじゃないかなぁ
などと思います。
カミヤカオリ