さて、転院することを決めたわけだが、その病院は山のかなり上の方にあった。初めて訪ねた時、まさか病院だとはとても思えなかった。控えめな看板によって、かろうじて病院であることを主張していた。というのも、外観が老舗の温泉旅館のようであったのだ。後から聞いた話では、元々旅館だった建物をそのまま病院として利用しているとのことであった。

 その病院は精神科だけでなく、いわゆる町の診療所も兼ねている。一人の先生が全ての患者さんを看ていた。そのような病院は初めてであった。待合室にいる患者さんの病気の症状は、風邪や腰痛、高血圧、心の病など様々であり、老人から子供まで多種多様な方で溢れていた。

 しかも、セラピー犬と称して大きな犬までいた。朝、先生とともに出勤してきて待合室の患者さんに歩み寄り、ひとしきり撫でられてから診察室に入っていくのだ。特に元気のない患者さんのところに、優先的に歩み寄っているような印象を受けた。

 今までの病院とは何から何まで違う。病院全体がとても温かい雰囲気に包まれていた。私はすでに安心していた。この病院は大丈夫に違いないと。いよいよ先生と初対面の時がやってきた。見るからに優しさを絵に描いたような看護師さんが診察室へと案内してくれた。

 先生に対する第一印象は、お医者さんらしくないというものであった。柄の入ったジーパンにプロ野球チームの刺繍の入ったジャンパー、もちろん白衣など着ていない。とても物腰が柔らかく、温和な表情を浮かべている。傍らには先ほどの大きな犬が寝そべっていた。

 実は受付の時に、あらかじめ手紙を一緒に渡しておいたのだ。病気を発症してから現在までの経緯を簡潔にまとめたものである。その方がよりわかりやすく、速やかに私の状況を伝えられると考えたからだ。

 既に先生はその手紙を読んでくれていたようだった。そして私にかけてくれた第一声を今でもはっきり覚えている。

「辛かったなぁ。」

 実感のこもった優しい言葉に、私は初めて主治医の前で泣いた。

 たった一回の診察ですっかり主治医に魅せられ、信頼を通り越して尊敬するまでになっていた。この先生ならば私の苦しみを理解してくれる、良い方向へと導いてくれると確信することができたのだ。

 初回の診察にもかかわらず、今までの主治医には話したこともないような将来の不安を、赤裸々に訴え続けていたような気がする。それぐらい追い詰められていたし、何でも話せそうな雰囲気を肌で感じていた。

 主治医が私にかけてくれた言葉の中で、一番印象に残っているものがある。一生忘れることはないだろう。

「食べるのに困ったら、いつでも来なさい。」

 とても驚いたとともに、いずれそうなってしまうかもしれないと真剣に思っていたし、そうなることが一番怖かったのだ。主治医はそんな私の心の内を読んでいたのだと思う。その言葉を聞いて心から安心できたし、感動すら覚えていた。最後にこうも言ってくれた。

「病院には入院施設もあって温泉もあるから、気分転換にいつでも入りに来なさい。」

 私は新たな主治医に出会えたことに、心から感謝した。

 それにしても精神科のお医者さんは本当にいろんなタイプの方がいる。今まで数名の主治医にお世話になってきたが、人柄はもちろん、診察時間や診療方針など様々だ。中には一分診療の主治医もいたし、一度も目を合わせない主治医もいた。

 しかし、往々にして患者は主治医を選べない。いや、正確に言うと選ぶための判断材料が少ない。精神科は他の科と違って、病院や先生の評判があまり聞こえてこないのだ。それは精神科に通院していることを、おおっぴらに言う人が少ないからだろう。

 世間では心の病で通院していることを、あまり良く思わない風潮があるように感じる。最近でこそ、うつ病がメディアに取り上げられることも多く、偏見も、昔よりは少なくなってきているとは思うが。

 だけど、依然として見えない壁が確実に存在していることは間違いないだろう。決して、本人が悪いことをして病気になったわけではないのに。むしろ、限界を超えてまで頑張ってしまった結果、心の病になる場合が多いのではないかと私は感じている。