狩野芳崖(かのう・ほうがい)と四天王―近代日本画もうひとつの水脈―展の内覧会に行って参りました。

 

芳崖は、重要文化財「悲母観音像」(写真右)以外よく知らなかったので、初めて見た作品ばかりで新しかったです。


悲母観音像は10月10日から公開されます。

2017年から福井県立美術館や山梨県立美術館などを巡回してきた本展、東京が最後です。 

 

 

ギャラリートーク(野地美術館長)

 

 

【第1章】 狩野芳崖と狩野派の画家たち─雅邦、立嶽、友信―
 

室町時代から400年続いた日本最大の絵師集団である狩野派。

狩野芳崖や橋本雅邦らは、その終焉を飾る狩野派最後の画家で、幕末以降流入した西洋美術との相克のなかで伝統的な日本美術の革新を志して、のちの日本画の方向性を創りだしていきます。

 

芳崖を起点に、四天王が学んだ芳崖と同時代の画家、橋本雅邦や木村立嶽の作品が出品され、狩野派の正統を受け継ぎながら、近代日本の黎明期を生き抜いた画家たちの作品が並んでいます。

 

 

狩野芳崖と周囲の人物の相関図です。

 

 

中央上が芳崖。

 

中央には、東京美術学校(現在の東京藝術大学)を設立した岡倉天心。

「朦朧体」で有名な横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月ら四人の天心の弟子のうち、下村観山は芳崖の教え子でもありました。

 

「~四天王」という表現、日本人はよく使いますが、本展ではこれでもかこれでもか、と出てきます。

 

 

 

狩野芳崖

左)「岩石」

右)「柳下放牛図」

 

 

 

 

【第2章】 芳崖四天王―芳崖芸術を受け継ぐ者―
 

続いて、芳崖の高弟たちの作品。

 

岡倉秋水(おかくら・しゅうすい)、

岡不崩(おか・ふほう)、

高屋肖哲(たかや・しょうてつ)、

本多天城(ほんだ・てんじょう)。

 

彼らは早くから鑑画会で活躍し、東京美術学校入学後は「芳崖四天王」と呼ばれ、日本画の新しい担い手として前途を期待されていました。

 

芳崖の最晩年に師事し、芳崖の絶筆「悲母観音図」の制作を間近で見ています。

 

しかし、師・芳崖を亡くした後は、徐々に画壇と距離を置き、表舞台から姿を消していきます。

 

東京美術学校を中退して教育者に転じた秋水、

当初は秋水同様教育者になったものの、のちに本草学の研究を志した不崩、

あるいは高野山に参籠し仏教美術研究に傾倒した肖哲。 

 

彼らの存在は、芳崖から東京美術学校、日本美術院へと続く革新的な近代日本画の流れとは異なる「もうひとつの水脈」であり、才能あるアーティストたちの人生の多様さが感じられます。

 

 

岡不崩「群蝶図」(個人蔵)
今回初めて知りました。収穫です。

 

 

高屋肖哲が描いた高野山・三宝院の襖絵

≪高野物狂≫大正14年

 

全26面に及ぶ大作で、高野山を舞台にした謡曲「高野物狂」に取材し、「花壇上月伝法院。紅葉三宝院よりもなお深く。雪は奥の院」を絵画化したもの。

 

これは本物を見てみたいですね!

 

 

 

 

【第3章】 

四天王の同窓生たち=「朦朧体の四天王」による革新画風


第2展示室では、岡倉天心と共に、先駆的な表現を試みた

横山大観、

下村観山、

菱田春草、

西郷孤月 ら日本美術院の画家が取り上げられていました。

 

明治30年代における朦朧体派の実験的な製作は広く知られていますが、彼らはそれまでの概念を刷新して、世間の批判や中傷に耐えながら、新しい表現を模索していきました。

 

芳崖四天王の作品と並べて紹介することで、両派のモチーフや画風の違いが引き立ちます。

芳崖たちも革新的ではありますが、モチーフは天女などあくまで伝統的で、朦朧体のように輪郭がなくなるようなラディカルな変化はありません。

 

 

左)横山大観「杜鵑(ホトトギス)」明治37年 福井県立美術館

右)横山大観「夕立」明治35年 茨城県近代美術館

「朦朧体」のポイントは「 空刷毛(からばけ)」によるぼかしです。

画面全体に施し、水しぶきや辺りの潤いに満ちた空気を表します。

 

知名度は大観が図抜けて一番だと思いますが、

個人的には、菱田春草が好きです。

 

豪放で情熱的な大観 VS 繊細で理知的な春草

 

作品が同じ部屋に並ぶと、それぞれの個性がよくわかります。

 

巨匠たちの若き日を偲ばせる作品ですね。

 

左)菱田春草「春色(しゅんしょく)」明治38年 豊田市美術館

儚げで、どこか特定の場所というより、心象風景のようです。

 

 

 

菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明7) - 1911年(明44)は、明治期の日本画家。

 

横山大観、下村観山、西郷孤月とともに岡倉天心(覚三)の門下で切磋琢磨しました。

輪郭のない画風は「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれ批判を受けましたが、明治期の日本画の革新に貢献しました。

伝統的な線による表現を排して、光や空気、空間を没骨彩色の描法によって描きました。
 

「印象しかない」と批評家に揶揄されながらも自ら印象派と名乗ったフランス印象派と相通じますね。

 

菱田春草といえば、文展に出品された名作《黒き猫》と≪落葉≫が代表作です。

 

30代に入って眼病を患いながらも休み休み制作を続けましたが、腎臓病で、36歳のとき夭逝しました。

 

 

IMG_1965.JPG

写真を見る限り、長生きした大観と違って、いかにも線の細そうな美男ですよね。

 

6歳年上の大観とは良きライバルでした。

 

大観が21歳、春草が15歳のとき、二人は結城素明の画塾で出会います。
 

まもなく東京美術学校が新設されると、第一期生として大観が、翌年に春草が入学します。

 

二人はともに岡倉天心のもとで様々な伝統技法を学び、それを生かした新しい日本画の創造を目指していきました。
 

明治31(1898)年、東京美術学校の校長を辞任した天心は、日本美術院を創設。
大観と春草もこれに参加し、「空気を描く技法はないか?」という天心の問いに答えるべく、二人で朦朧体を試みます。

 

大観と春草の合作も残っています(《飛泉》など。本展覧会には出品していません)。

 

天心の勧めで、二人はインドに渡航したこともあります。

その翌年には、天心・大観と米欧を回覧。

 

日本美術院が茨城県五浦(いづら)に移転した際には、仲間たちと、それぞれの家族を連れて移住し、経済的苦境にともに耐えながら制作に励みました。

 

大観は、長生きして政治力もつけ画壇に君臨しましたが、のちに、自分などより春草の方が余程、絵がうまかったのに、とも語っていたそうです。

青春時代に苦楽をともにし、地位を確立する前に没した友を偲んで、どんなことを思い出していたのでしょう。

 

春草は長野出身なので、水野美術館など、長野県内の美術館に作品が数多く所蔵されています。

 

 

菱田春草≪四季山水≫ 

明治29年 富山県水墨美術館

 

 

 

 

 

 

右) 木村武山(きむら・ぶざん) 祇王祇女

 

 

 

 
参考資料:

福井県立美術館 展覧会紹介パンフレット

http://info.pref.fukui.jp/bunka/bijutukan/pdf/h29/h29_specialexhibition2_press.pdf

 

泉屋博古館分館 展覧会紹介パンフレット

https://www.sen-oku.or.jp/7facdc260e6ed573c5a75d894dee26bad5b4535b.pdf

 

 

 

【展覧会情報】

会期
  • 前期:9月15日(土)~10月8日(月・祝)
    後期:10月10日(水)~10月28日(日)
会場 泉屋博古館 分館 [MAP]
住所 東京都港区六本木1丁目5番地1号
時間 10:00〜17:00(最終入場時間 16:30)
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休館日 月曜日 
※9/17、9/24、10/8 は開館
9/18(火)、9/25(火)、10/9(火)は休館

https://www.sen-oku.or.jp/tokyo/